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エレベーターを降り、つい最近まで自分の家のように鍵を開けていた扉の前に立つ。
この扉に触れるのは約一ヶ月ぶり。深津さんと一緒に荷物を運び出したあの夜が、もう二ヶ月も三ヶ月も前の様な気がする。
扉の横に設置されたインターホンに人差し指を伸ばそうとした時、カチャリという音と共に静かに扉が開かれた。
ドキッとして息が止まる。
体を硬直させる私は慌てて指を引っ込め、放つ光が次第に広がっていく扉を見つめる。
「いらっしゃい。どうぞ」
彼は開いた扉から顔を覗かせ、突っ立つ私を招き入れようと一歩下がって隙間を空けてくれる。
ガチガチな私とは正反対に、落ち着いた様子で微笑みを浮かべている彼。
強行突破の勢いで覚悟を決めて来た筈なのに、彼を目の前にすると様々な感情が入り乱れ、目を合わせる事すら出来ない私。
心臓が煩い。
「……お、お邪魔しますっ」
先生の背後に見えるフローリング床に目を置いて、他人行儀に一礼して玄関に足を踏み入れた。
「あ、これ……」
廊下に視線を落として呟きを落とした。
用意されていたのは、私が愛用していたオレンジ色の花柄のスリッパ。住み込み家政婦をする私のためにと、杏奈さんが用意してくれたものだ。
「捨てないでいてくれたんだ……」
フリルの付いたそれを見つめたまま、込み上げて来る思いを抑え込む。
「おまえが使っていた物を、俺が捨てられるはずが無いだろ」
降り下りて来たのは、悲哀が込められた静かな声色。
彼の声に導かれるように、トクン――と、胸が甘く切ない音を立てる。
先生……
顔を上げ、正面に立つ彼を見る。
「冷たいお茶でいいか?」
「えっ?」
「飲み物。外は暑かっただろ。ムシムシしてるしな」
彼は私と視線を合わせる間もなくそう言って、リビングに向かって歩き出す。
何と無くだけど、肩透かしされたような気がして……
「うん……暑かった。飲み物、お茶をお願いします」
離れて行く彼の背中を見つめ、心に湧き起こる淋しさを自覚しながら履き慣れたスリッパに足を入れた。
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