587人が本棚に入れています
本棚に追加
思わず声を漏らした私に、目の前の人物は眉を寄せて軽く伏せていた顔を上げる。
私と目が合うと、その目はゆっくりと見開かれ、次の瞬間さっと顔を青ざめさせた。
「……内海? 誰のことですか? すみません、ちょっと俺、家を間違えたみたいです。では」
「ち、ちょっと待って、内海くん!」
内海くんはバケツを持ったまま踵を返そうとし、私はその腕を取って慌てて引き止めた。
観念したように内海くんが振り返ると、赤いエプロンの真ん中に描かれた家事代行サービス『ラビット』のイメージキャラクターであるラビットくんのあまり可愛くない笑顔がこちらを向いた。
似合わない……。思わず見惚れるほど端正な顔立ちに、大きなウサギの顔が描かれた赤いエプロン、三角巾という出で立ちは、まるで違和感を絵に描いたかのようだった。
「……紺野さんのお姉さん。えーっと、名前は……」
「さやかです」
名前を覚えていなかったのか、考えるように言いよどんだ彼に軽くお辞儀をして言う。すると内海くんは、素早く両手を伸ばして私の手を取った。
「さやか先輩、お願いします。俺がこのバイトしてるの、誰にも言わないでいてくれませんか?」
「え……?」
突然間近に迫った綺麗な顔とその言葉に戸惑い、思わず目を瞬く。
「うちの高校、バイト禁止じゃないですか」
「あ、そっか」
「お願いします! 俺、このバイトを辞めるわけにはいかないんです……!」
「内海くん……」
真剣な眼差しで私を見つめる内海くんを、困惑しつつ見返す。
よく分からないけれど、何か事情がありそうな様子だ。
「分かった。誰にも言わないよ」
「ありがとうございます」
安心させるように微笑んでみせると、内海くんはほっとしたように笑みを広げた。
「それじゃあ、早速ですけど仕事に取り掛からせてもらいます」
「うん、よろしくお願いします」
バケツを持った内海くんを家の中へと迎え入れ、そのままリビングへと案内する。
「でも、どうして今日の担当は内海くんだったの? いつもは杉谷さんが来てくれるんだけど……」
「ああ、それは杉谷さんの息子が急に風邪ひいたとかで…………」
リビングに入った内海くんが、突然言葉を途切らせた。
「……内海くん?」
「な、なんやこれは……」
内海くんは手に持っていたバケツを落とし、わなわなと震えながら呟いた。念のため周りを見渡してみるけれど、もちろん他に人の姿はない。
最初のコメントを投稿しよう!