麗しの射干玉の

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 これは……切らないとダメなのか。  たまに出掛けると、こんな目に合う。  このままバスに乗って行くわけにも行かない。  知らず涙が出そうになる。  どうしてだろう。  私は自分の身の丈に合った暮らしをしているだけなのに。誰のことも羨ましがらず、目立たないように、大人しく。皆に笑われても、陰口を叩かれても、反論もせず毎日地道に暮らしているのに。  見回した視線の先に、1件の美容院があるのが見えた。これまで美容院になんて入ったことはないけど……でも、この際そんな事言ってられない。  バッグを抱えてベンチから立ち上がると、私はその美容院に向かって歩き出した。  恐る恐るドアを開く。レジカウンターで何かを書いていた男性が顔を挙げて私を見た。 「いらっしゃいませ」  店内には他のお客さんの姿はない。  ちょっとだけホッとする。知らない人と空間を共有するのは苦手だ。 「あの……予約してないんですが、大丈夫ですか?」 「ええ、大丈夫ですよ」  バッグを預け、鏡の前の椅子に案内された。 「本日はどうされますか?」  男性美容師に尋ねられて、私は事の次第を説明した。 「ガムか……これ、厄介ですよね」 「やっぱり、切らないとダメですか?」  彼は私の髪を一房掬い取って、しげしげと眺めた。 「こんなに綺麗な髪の毛なのに、切ってしまうのはもったいないな」  私の耳に飛び込んで来た言葉──「綺麗なのに」。 「でも……でも、切らないと取れませんよね?」 「いえ、切らなくても大丈夫ですよ。ちょと待っててください」  美容師は椅子から離れると、少しの間姿を消した。2?3分して戻ってきた彼は、手にタオルでくるんだ何かを持っている。 「ガムはね、冷すと取れやすくなるんですよ。こんなに綺麗な髪の毛をしてるんですから、切るなんてもったいないですよ」  ガムがへばりついている箇所に当てられているタオルには、氷がくるまれているらしい。 「ご自宅でもこうやって氷を当てて冷してやれば、きれいに取る事が出来ますよ。少し時間がかかるかも知れませんが、せっかく伸ばした髪を切らなくて済みますからね」 「……綺麗……ですか、私の髪?」  鏡の中の私は怯えた顔をしている。答えを聞くのが怖かった。  私なんかが、「綺麗だ」なんて言葉をかけられるはずがない。そんなの思い上がりだ。
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