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「ずっと昔、会ったような記憶があるのだが、もしこの町の生まれなら教えてくれないか」
男が訊ねた。胸の中に蟠ったまま帰していいものかどうか、思いあぐねていた。
「はい、おじさんもよく知っている嶋木美春の娘、加奈子です」
「え、美春さんのお嬢さん!」
「そうです」
「いくつかね?」
緒方雅宏は咳き込むように訊ねた。もし、あの当時の子どもだとしたら? あり得ることだった。
緒方雅宏は地元の大学を卒業し、東京の通信会社に就職が決まり上京した。それまで付き合っていた嶋木美春も同じ会社を受けたのだが、受かったのは雅宏だけだった。
結局、美春は地元中学の教師になり、県内を渡り歩くように赴任していたらしい。
「三十歳になったところです」
美春とは男女の仲だった。愛しあっていたと言えるかどうか。いまになって思えばお互いに体が欲しかっただけで、それを恋だと錯覚していた気がしないでもない。
同じ県都の大学に進学し通学もずっと一緒だった。それでも別れるときは来た。美春の実家はバッチ網漁の網元で一人娘だった。
雅宏も長男だった。両親は教師だったが、この町に帰らずとも両親の面倒はみなければならない。そのうえ就職した三年後には海外勤務になった。
赴任が解かれて本社勤務になったときは五十歳を越していた。その間、美春とは何十回か文通はあったが、いつのまにか間遠になっていた。
その頼りの中に結婚を匂わす文面が添えられていて、美春は去って行ったのだった。
「美春さんはお元気ですか?」
「八年前に亡くなりました。私が大学を卒業した年でした」
「そうでしたか……。結婚したのはそれとなく知っていました」
「おじさんは、結婚はしたのですよね」
「ええ、五十を過ぎてからの見合い婚でした。子どもは出来なかったです」
「おじさんは今お一人ですよね」
「そうです。家内は三年前に亡くなりましたから……」
「今は何をされているのですか?」
「これといって何もしていません。家を処分するつもりで帰ったのですがね。たまに友人と一杯やるのが唯一の愉しみです」
生まれ故郷とはいえただ閑静なだけで、思い出を追いかけてみてもくすんだ光景しか浮かんでこない。しかし、これが凡人の人生なんだと悟ってみると、田舎暮らしも捨てたものじゃない。そう思いリホームしたのだった。
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