第1章

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仕事で痛恨のミスをした日だった。 あのバーにはあれっきり訪れてないままで、もう数週間経っていた。 心底疲れきっていた。 ターミナル駅で別れた彼に似た人を見かけたのもいけなかった。 -とはいえ。 シティホテルの一室で裸で寝てる自分には呆れた。 まさか、そういうことになるとは。 その日久しぶりに寄ったバーにはclosedの看板がかかっていた。 ついてないな、そう思い帰ろうと階段を登り始めると、何故かマスターが上から降りてきた。急いで来たような様子だった。 マスターは何気ない顔で、すれ違いざまに、 「カクテル、飲む?」 と、聞いてきた。 疲れきっていたからどうでも良かったけれど、重い扉を抑えているマスターに促されわたしは曖昧に中にはいった。 多分、看板はclosedのままだった。 貸し切りで飲んでいた私は、酔いが回り愚痴をこぼしていた。 仕事でミスをしたこと、大好きだった彼と別れたこと。 随分飲んでいたんだろう。 帰ろうと立ち上がろうとしたが、上手く立てずにその場にへたり込んでしまった。 そして、情けない自分の様に、顔がぐしゃぐしゃになるくらい泣いた。 そして、気付いたら抱きしめられていた。 -あったかい。 -タバコの匂いがする。 お酒とジャズのせいで身体が気怠く、もう、どうでも良かった。 そして、これだ。 自分の浅はかさに失笑してしまう。 マスターとの夜は悪くなかったと思う。実際あまり覚えてない。別れた彼の名前を呼んでいたかもしれない。 ただ、優しく、甘く、丁寧に扱ってくれ、わたしはとろけるかと思った。 目覚めるとマスターの姿はなく、ベッドのサイドボードにお店のカードがさりげなく置いてあった。 裏表見返しても特にメッセージはなかった。 ふいに、ゴミ箱をみる。 捨てられている避妊具にホッとすると同時に少し笑った。 -あの、マスター、やり手だわ。 装着してるのすらわからないほど、手慣れてた。 椅子にぞんざいに掛けられた昨日の衣服を纏いながら別れた彼との事をぼんやり思った。 痛みは依然としてまだある。 まだ、愛してる。 でも、 あのバーの重い扉の中に全て置いてきたような気もしている。未練や悔しさや苦しさを。 愛した日々。 嘘みたいな甘い時間が、苦い記憶だけ抜いてくれたみたい。 これでもう、わたしはまたわたしらしく生きられる。 もう、重い扉は、開けなくていい。
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