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少年は一命をとりとめる代わりに、光を失った。
彼は箏の師匠の内弟子として預けられた。稽古は厳しかったが、たちまち箏の魅力に魅入られた少年には苦ではなかった。
箏の音はかつて見えていた故郷の景色を瞼の裏に甦らせてくれた――海の波、水のきらめき、新緑、紅葉、純白の雪……そして満開の桜。
彼はめきめきと実力をつけ、やがて師の跡をを継ぎ、超えた。少年は青年となり、箏曲の第一人者と謳われ、海外からも招待された。音楽学校で教え、200に近い曲を作った。何人もの弟子を育て、世に送り出した。
しかし、壮年に差し掛かろうかという時、彼は胸を患い表舞台を去った。
ある時、療養中の彼を一人の女性が訪ねて来た。
彼女はかつての音楽学校時代の教え子だった。今は故郷に戻り女学校の校長をしているという。
「校歌……ですか。しかし今時はピアノやオルガンでしょう。なぜ、私に?」
「私は先生に箏曲で校歌を作っていただきたいのです。私の勤めますのは、技芸学校と申します。
裕福なお嬢さんでも給費生になれるほど優秀でもない、ごく平凡な娘達がなけなしの学費を払い、家族のために手に職をつけに参ります」
維新から早や50年以上。時代は大正となり『職業婦人』と呼ばれる女性も珍しくなくなっていたが、その社会的地位は現代とは比較にならぬほど低かった。
「私、先生が西洋で日本の楽器を堂々と弾き、音楽家として敬われている姿に大変勇気をいただきました。
私の生徒達の多くは裕福さや華やかさとは生涯無縁の生活を送ることでしょう。道端に咲く名もなき花のように。
しかし、心の内だけは美しく、誇らしく、晴れやかにいて欲しいのです…春のお城の山に咲く、桜の花のように」
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