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彼が思いを馳せていたのは尊敬と名声を一身に集めた日々のことではない。
少年の日。厳しい修行の日々。
厠まで何歩、師の部屋まで何歩…
視力を失ったがため、慣れぬ他人の家で、他の感覚を使ってあらゆる術を身につけた。
生きるために。
何不自由なく旧家の跡取り息子として育てられてきた彼には十分辛い日々であった。しかし、自分がもしありふれた貧農の息子であったらどうであったろう。
通りで物乞いをするより他に術がなく、道端で踏まれる草より惨めに朽ちていたかもしれない。
「わかりました。しかしこのとおり病で、明日をもしれぬ身」
約束はできぬが奇跡的に長らえたならば必ず……と答えたその時、漆黒に白が舞った。
奇跡は起きた。
彼は5年の療養の間に、おそらく日本で唯一の箏曲による校歌を完成させた。200に及ぶ自作の曲の中でも唯一の校歌である。
かそけき花の、麗らかに清くあれ。
枯野の果てにありとも、麗しく気高くあれ。
箏を弾き、口述した最後の譜を内弟子に書き取らせた。弟子は自身のための灯りを消し、退室した。
と、彼の目に見えぬはずのものが見える。
切り揃えた長い黒髪、桜色の着物に紅色の帯。
――君だったのか――
桜は樹木としての寿命も短い。生家の庭で最後に残った一本も5年前の大雪でいよいよ駄目そうだ、……という話を人伝てに聞いた。その木は彼が落ちてからもう何十年も花を咲かせていなかった。
――僕は生を望んだ。だから、君は代わりに――
少女は頬を桜色に染め、涙を溜めて頷いた。
――いいんだよ、もう――
――ありがとう――
彼の目には、満開の桜を仰ぎながら晴れやかにこの歌を歌う娘達の姿が鮮やかに見えていた……なりは質素だが笑顔は眩しいほどに輝いている。
閉じた瞼から暖かいものが溢れた。
――いい、人生だった――
~完~
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