序章 「蛍の事情」

4/11
前へ
/1579ページ
次へ
 五感を失った事がある。 高校一年の春だった。  私が行きたいとずっと言い続けていた旅行……高校合格のご褒美だった旅行。  お父さんとお母さんも、とびきり楽しみにしていた。  事故が起きたのは、その途中。  細い山道で、後ろから走ってきたトラックに追突された。私たちは山道から弾き飛ばされ、崖下に車ごと逆向きに転落した。  下半身を押しつぶされて、両親は即死たっだ。 車の中は血の匂いで一杯で。  ただ、後部シートの下に、一旦転げ落ちた私だけが、逆さにへしゃげた車中の隙間で、奇跡的に生き残っていた。  怖かったし、涙が止まらなかったのを覚えている。  崖下への救助作業は困難を極めたそうだ。  永遠に思える時間の中で、私は父母の死体と共に、いつ谷底へ落下するか判らない車の中に閉じ込められていた。  何度も夢だと思おうとした。意識が現実とそうじゃない世界を行き来した。  助け出された直後の事は覚えていない。 数日の昏睡の後、目が醒めた時の私の世界は暗黒と無音、静寂の中だったから。  見えないし、話せない。 聞こえないし、ものの匂いすら判らない。  触れても触感が判らない。 一週間以上、ただ、ベッドの上で人形のように横たわっていただけだったそう。
/1579ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1372人が本棚に入れています
本棚に追加