序章 「蛍の事情」

8/11
前へ
/1579ページ
次へ
 伯父以外には、この世に肉親のいなくなった私にとっては、あの苦境を救ってくれた蜷川病院の人たちだけが、強いきずなで結ばれた存在だった。  白井さんは、リハビリを怖がる私にいつも厳しかった。 凛として、全然優しくなかった。  でも、一つ出来る事が増えるたび、自分の事のように喜んでくれた。蛍はガッツがあるって褒めてくれて。そのたび、嬉しくてまた頑張ろうと思った。  そのうち、お互いの笑顔がとても気になるようになって、個人的な話もするようになって、ちょっとだけ、病院の外にも一緒に出るようになって。  最後までなかなか戻らなかった、私の視覚を取り戻してくれたのも、白井さんだ。  その頃、五感のほとんどは、そんなにたいした時間をたてずに戻っていたのに、どうしても視力だけは戻らなかった。  本当は見えているのに、認識できないんだと、蜷川先生は言っていた。  見ているものを、認識する事を心が拒んでいる。 見える事を怖がって、見えないと自分に言い聞かせているって。  これ以上それが続くようなら、専門の心療内科に行く必要があるねと、寂しそうに先生が言った声。  何故だか耳にまだ残っている。  病院を離れるのが嫌だなと、そう思ったから覚えているんだと思う。もうすぐ夏になる。そんな暑い日だったのも覚えてる。 伯父さんと連絡がつく、数日前。    確かその日の晩だ。 白井さんが、こっそりと私の所に来てくれたのは。  白井さんは見えない私に目隠しして、そっと病院裏にある小さな森の小道を、私を車いすに乗せて運んでくれた。
/1579ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1372人が本棚に入れています
本棚に追加