序章 「蛍の事情」

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 その間、やり取りは一切言葉はなくて。 ただ、私の唇に『声を出さないで』とだけ、指で示して。  森の奥に小さな川が流れていて、そこで目隠しがソッと外されて。青い白い光が、幾つも、夜露で濡れたシダの間、さわらぎを縫って、ゆらゆら揺れて光って流れているのに、息をのんだ。  月明かりが遠い場所で木の葉の上を滑っていた。 でも川の上を踊っているのは月とは別の無数の光。  いじらしい位、一生懸命の光で飛び交っているそれはまるで、人の心のかけらのようで。  ……蛍。 私の名前と同じ、蛍。  自分の目が「見えて」いる事に気づけないくらい、幽玄な、綺麗な世界だった。  お父さんとお母さんの笑う声が聞こえた気がした。 蛍。愛してるよ、蛍って。  ……あなたが生きていてくれて、本当に良かったって。  お父さんたちが私を旅行に連れてきてくれたのは、お父さんとお母さんの出会いの場所だったから。  蛍が飛ぶ川で二人は出会って、結婚して、私が生まれたんだって。だから私にも、蛍とつけたんだって。本当は蛍の季節に来たかったけれど、入学祝いだったから春になっただけで。  あの車の中でも話していた。 「本当の「蛍」を、いつか蛍にも、見せてあげたい」って。  ……涙がどんどん溢れて、溢れて、いつの間にか私は大声を上げて泣き出していて、その私を白井さんが後ろから大きく抱きしめてくれて。  その後、白井さんは私の目を手で覆って、口づけをした。  とても長い口づけで、私は訳が分からなくなって、そうなっているうちに、白井さんは無言のまま、私にまた目隠しをして、病室まで連れ帰ってくれた。  
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