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幸一はフローラルナイフを尻のポケットから取り出しスカビオサの束を掴んだ。 美咲子は事前に用意しておいた小さめのバケツを幸一の傍に置いてから、作業台の引き出しにいれてある金槌を用意する。 「美咲さん、小手毬は俺がやるんでいいですよ。百合の花粉でも取っててください」 幸一はスカビオサの茎の下のほうをナイフで素早く切り、美咲子の用意したバケツにそっと入れた。口元が笑っている。 こいつめ、言うようになったじゃないか。 美咲子は睨む振りをしてから手に持った金槌を幸一に差し出した。 「そうね。お願い。またぎっくり腰したら社長に怒られるわ」 幸一は笑いを耐えているのか顔を美咲子から少し背けて「そうですよ」と金槌を受け取った。小手毬の束を片手で軽々と持ち上げ、店の端のコンクリートの地面に置くとその茎の切り口を叩き出す。 美咲子は、「おばさん扱いしやがって」と幸一の頭を小突いてやろうかとも思ったが辞めておいた。 あのぎっくり事件を思い出すと恥ずかしいやら申し訳ないやらで苦笑いしか出来ない。 あれは半年ほど前、美咲子はカサブランカと水が満杯に入った特大の桶を陳列棚の三段目に乗せようと持ち上げた。 十キロの米袋など比べ物にならないほどのそれが二段目の高さまで来たとき、美咲子の腰は悲鳴を上げた。 そしてそれと同時に美咲子も悲鳴を上げたのだ。 あとから聞いた話によると、美咲子の悲鳴は目の前の横断歩道の向こう側まで聞こえたらしい。たまたまその時間に本店を上がった志乃がちょうどそこにいて、そしてその隣には花の束を抱えた幸一がいた。 動物園の猿ような声を耳にして、しかもそれが自分等の勤め先からだと気づき、顔を見合わせたと言う。 駆けつけた幸一と志乃によってカサブランカの桶と自分を救出してもらったのだが、何せ動けない。仕方がないので、志乃が隣のドラッグストアから借りたパイプ椅子を店の端っこに置き、幸一の手を借りて何とか椅子に腰掛けた。 浅く斜めに腰かけ、背もたれを掴んで腰に負担がかからない体勢で約一時間、夫が迎えに来るまでオブジェのようにおとなしくしているしかなかった。 通行人や客の誰もが不思議そうに美咲子に視線を送っていく。
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