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「おかあさん」
と、小さい手が、私の手を引く。
暖かい。
とても一生懸命だ。
「おかあさん」
「まつり」
あの人に殴られて、口の中には血の味がしている。
あの人がまた、お酒を飲んだからだ。
この子が居るからだとついこのあいだまで思っていたけれど。
来年は1年生になるのに、まだ、1学年分は小さい茉莉(まつり)。
男の子なのに、棒みたいに細い体で、一生懸命に私をひっぱる。
あの人から逃げるために。
「……あんたのせいで」
と、言いかけた。
あんたのせいで私は殴られたのだ、と。
いつもそう言って、私は茉莉を罵った。
それは私の口癖のようなものだった。
あんたがいなければ、私はもっと愛された。
あんたがいなければ、私はもっと自由だった。
私たちは裸足だ。
足の裏に直接触れているアスファルトは昼間の熱をいつまでも残して、硬いがほのかに暖かい。
夏で良かった。
まとわりつくような蚊の羽音は鬱陶しいけれど、これが冬だったら目も当てられなかったろう。
街はまだ眠っている。通行人はいない。
聞こえるのは茂みに潜む虫の声くらいだ。
後は、ただ必死で歩き続けている、私たちの乱れた呼吸の音だけ。
こうして歩き続けて、どのくらいたったのだろう。
一時間?
二時間?
いや、もっとだ。
世界に取り残されたというよりは、私たちだけしかいないような。濃い夜の闇の中を、いつまでも喘ぐように歩き続けて、もう、空はとうとう白み始めている。
あの人が目を醒まして、追いかけてきたらどうしよう。
その時には、また殴られるのだろうか。
急に恐怖が私の脚を竦ませた。
どうして、逃げ出してしまったのだろう。
殴った後、必ず、あの人は平謝りに謝ると、判っているのに。
お酒がいけないのだ。
または、あの人を不安にさせ、認めない会社の上司が。
この子が私を連れ出したのだと、そう言ったら、どうだろう。
あの人は理解してくれるだろうか。
悪いのはこの子だ。だから、この子が殴られればいい。
「……おかあさん!」
茉莉が動かなくなった……動けなくなった私の手をギュッと握って、ひっぱる。
私は唇を強く結んで、その小さな手の導く先へ行く事を拒む。
茉莉が、切なげに首を横に振る。
一生懸命、両手で私の手を引く。
「帰らないと。お父さんの所に、帰らないと」
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