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私は茉莉に言った。
あの人が私を責めた時に、そう言い訳ができるからだ。
けれど、私を仰いだ茉莉の必死の目に声が詰まった。
この子が私の手を引かなければ、私はあの家の中で死んでいたかもしれない。
仕事で失敗したあの人に、今日は相当に殴られた。
自分の顔が腫れあがっているのがわかる。
あの人が酒に潰れて眠った後も、虚脱して逃げる事すら思い浮かばなかったほどだ。
でも、私が声を詰まらせたのは、その虚脱を思いだしたせいではなかった。
夏の朝の、シンとした空気が、私たちを包む。
茉莉も叩かれたのだろう。
口の左端に、真っ赤なイチゴのような痣が出来ている。
それにいま、初めて、気づいた。
いつ洗ったのか忘れてしまった、ぼさぼさの髪。
幼稚園に行かなくなったのに、そのまま着ていた、園の体操着。
汚れた顔。
……小さな、黒い瞳。
いろいろなものが、今、夏の朝日に初めてくっきりと目の前にさらされたように、私の目に、脳に、鮮明に映った。
……痛かっただろうか。
私は手を伸ばし、その唇の端の傷にそっと触れた。
私は、痛い。
目を動かすだけでも、顔中に激痛が走る。
茉莉も……痛かっただろうか。
口癖の、あんのたのせいでと言いかけた口を閉じ、手を伸ばして、その唇の端にさらに触れてみる。
痛そうに顔をしかめる茉莉の仕草に、思わずビクッとなる。
昇り始めた朝日に、茉莉の傷が私に見えるようになったのと同じように、私の殴られた顔のさまも明らかになってきたのだろう。
茉莉の小さな唇が微かに動いて、ひどく心配そうに私に問いかけた。
「おかあさん。……痛い?」
その一言が、私の耳から、心臓に突き刺さるような痛みを覚えさせた。
えぇ。私は、痛い。
でも、今はその痛みが判らない。
茉莉の両手が、私の顔に震えながら触れる。
「おかあさん。痛い?」
茉莉の手は暖かい。
それが傷に痛いはずなのに、今はそれもわからない。
何故だか私は茉莉の前に膝をつき、茉莉を胸に抱き寄せていた。
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