本編

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 テストの範囲が私の見える世界の半径だったら、これはとても不幸な事なのだろう。学校では、記憶の消し方を教えてくれない。  清掃用のモップで棒術合戦を繰り広げる男子2人を一瞥し、私は掃除用具入れの中身を覗きこむ。100円ショップで買ってきたような壁掛けのフックに、結んだ毛糸でぶら下がるシダ箒を手に取った。  丸めた雑巾でキャッチボールをする野球部二人を尻目に、シダ箒の後ろにかかった塵取りを掴んだ。 「男子、サボるな」を合言葉に、教室の扉が開く。と、いわんばかりの抑揚で先生の声と足音が聞こえ、振り返ろうとしたところで雑巾がけ用の水をこしらえたバケツを足で蹴ってしまった。  転倒して大惨事、なんてことはなかったが、ユラリユラリとマイペースな波紋を立ててバケツは震え、縁から少量の水が溢れた。  誰も一部始終を見ていなかったので、さりげなく水滴を足で伸ばし、私もやらなかったことにした。  黒板の上に据えられた音響機器からノイズが走り、続けざまにチャイムの電子音が響いた。先生の死角から「今から掃除なんだよバーカ」と口パクとジェスチャーで悪態を吐く野球部の1人が目に留まった。2秒後には視界から外していたが。  たしか彼は、野球部の次期エース候補だったはずだ。自称だが。自称次期エース候補という単語は、エースという宝がいろんな殻に覆われていて、まだ取り出せていないようなイメージを抱いた。 「1という数字を背負いたいがためか、あいつの頭の中は0だ」と野球部の顧問でもない教科担任が笑いを取ろうとしていたことを思いだした。当事者でもない先生こそ、部活関係の話題で皮肉を買いに来るのはここだけの話ではないだろう。  席でうつむく彼の顔はブイヤベースで煮込んだかのように真っ赤で、青い頭頂部からは湯気が昇っていた。  その時の彼はどんな心情だったのだろう。悔しさ? 恥ずかしさ? 怒り? 一周回って快感?  胸に渦巻いた感情を全てひっくるめても、今の清掃に対する怠惰な態度は、あの時の彼が抱いた感情は全て忘れてしまっている証拠だろう。いや、もしかしたら胸の内に秘め続けているのかもしれないが。  そうだよね。人って、忘れて生きていくんだもんね。 忘れたように演技して明日も笑顔を振りまいていくんだよね。  誰にも聞こえないように呟いた。
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