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明治の頃までは土佐七大寺といわれ、末寺四ヶ寺、脇坊六坊を持つ名刹であった。
本尊の波切り不動明王は大師が入唐のさい、暴風雨を鎮めるために現れたと伝えられ、今は航海の安全や、豊漁、世間の荒波を鎮めてくれると、深く信仰されている。
寺を出たとき時計を見ると、朝の九時を少しまわったところだった。今更ながら車の利便性に唸らされたものだ。
ホテルを出たのが八時過ぎだから、十二㎞走り合掌礼拝から手順通り念入りに唱えた。開経偈一辺、般若心教一辺、御本尊真言三辺、光明真言三辺、御宝号三辺、回向文一辺、合掌礼拝まで十五分ほど掛けていた。
早ければ良いというものではない。いかにお大師さまと向き合うことができたかということだろう。おのれの真の姿を晒してこそ、お大師さまも寄り添う気になられるのではないだろうか。
お大師さまにしても、生まれたときから仏様であったわけではない。若いときは若いときの苦悩もあったはずだ。だからこそ、菩薩になったのではあるまいか。
六十一歳でこの世から去られたとあるが、死を迎えたときどんな心境であったのだろうか。われわれ凡人には到底計り知れないが、死が迫りつつあるとき、悟りを求めた人生は無常だったなどと、達観せられたのであろうか。
第三十七番札所岩本寺までは五十五㎞ほどあった。曲がりくねった道を注意深く走った。横波黒潮ラインに乗って走った。ところどころに展望台があった。
帷平(かたひら)崎展望所で一休みした。前方は果てしない太平洋だ。トイレ休憩したあとくろしお展望所に寄った。
武市半平太の銅像が建っていた。土佐藩主山内容堂の勘気にふれて獄死した人物である。
土佐から出た幕末の志士として抜きんでているのは、政治家としては坂本龍馬であり、戦術家としては中岡慎太郎であろう。二人とも大政奉還なったあと暗殺されている。志半ばの憤死であろう。それに続く人物が銅像の主、武市半平太であろうか。
高知自動車道にのりよさこいトンネルを通過した。須崎市を通り抜け、中土佐町をやり過ごして四万十町に入った。しばらく走ると案内標識があった。
その指示どおり右に大きく迂回した。国道三百八十五号線方面に行くためだ。信号を二つ通過して左に折れた。さらに右に行ったところに岩本寺があった。
近くに清流四万十川が流れていた。標高三百㍍の台地に岩本寺は建っていた。
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