第1章

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 ここに辿り着く遍路旅もまた壮絶を極めたといっいい。前の三十七番札所から八十余㎞、車でも二時間余、歩けば三十時間三泊四日は掛かり、四国霊場の札所間では最長距離で、まさに「修行の道場」であった。  縁起によると、大師は伽藍を建立したときに、三面千手観音像を彫像して安置し「金剛福寺」と名付けられた。「金剛」は大師が唐から帰朝する際、日本に向けて五鈷杵を投げたとされ、別名金剛杵ともいう。また「福」は『観音経』の「福聚海無量」に由来している。  戦国時代以降、海の彼方にある常世の国・補陀落浄土を信仰して、一人で小舟を漕ぎ出す「補陀落渡海」が盛んだったことや、一条氏、山内藩主の支えで寺運は隆盛した。大師因縁の「足摺七不思議」といわれる遺跡が、岬の突端を巡るように点在している。  駐車場の後ろ、太平洋に向かってジョン・万次郎(中浜万次郎)の銅像が建っていた。西暦千八百二十七年、いまから百八十五年前に土佐清水市中浜の漁師の子として生まれ、十四歳のとき出漁中に漂流し、アメリカの捕鯨船に救助される。これが万次郎の数奇な運命の扉を開くことになった。  やがて船長に才能を認められ、船長の故郷マサチュウセッツ州フェアへープンで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学んだ。やがて帰国し、それらの貴重な知識や技術、体験は幕末から明治にかけた日本の夜明けに、いや日米友好をはじめとする国際交流の礎に多大な影響を与えたといえる。  特に注目したのは、民主主義や外国での生活、考え方などが坂本龍馬の思考の原点になったことは否めない。  万次郎の体験があったればこそで、板垣退助、中江兆民、岩崎弥太郎などが陸続として、日本の近代化に邁進したのであろう。政界では板垣退助、思想界では中江兆民、経済界では岩崎弥太郎たちの根幹は「自由主義」である。日本の夜明けは土佐から開けたといっていい。いや、中浜万次郎の漂流は、いわば日本が近代国家になるための天命を背負ったのだといっていい。 「今夜はどこに泊まるの?」  加奈子が訊いた。  雅宏はまだ決めていなかった。というより何番札所まで行けるのか、分かっていなかった。次の札所延光寺へは四時過ぎには着くだろうが、その後をどうするかだった。着いた宿毛市で泊まるか、それとも愛媛県まで足を伸ばし四十番札所周辺まで行っておくかであった。 
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