第1章

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「お四国参りに来る人は、それぞれ何か心配ごとを抱えているのじゃないでしょうか」  観光だけの物見遊山の人もいるだろうが、悩みのない人などいないはずだ。多かれ少なかれ何らかの屈託を抱えているだろう。  無いとすればそれは思考力が止まった人だ。雅宏はそんな気がしている。 「そうでしょうな、どんな人だって何か一つや二つ悩み事はありますわな」  老人が相槌を打った。隣りにいた連れ合いが大きく頷いた。  第三十三番札所雪蹊寺(せっけいじ)は、高知の名所桂浜から、四㎞ほど離れた住宅地にあった。  この寺にもバスで行った。高知はバス路線が多い街のようだ。雅宏たちが住んでいる阿南市橘町は、JR牟岐線の駅はあるものの、隣り町の見能林にある駅で、橘には鉄道の駅はない。  なぜそうなったのか、子どものころから不思議だったが、いまもってその理由は知らない。車を持たない住人はバスを利用するしかないが、便数が少ないから不自由このうえもない。  それはともかくとして、桂浜には何度か行ったことはある。そのとき近くに雪蹊寺があることすら知らなかった。 桂浜は坂本龍馬の銅像が有名であり、浜は白砂で月の美しい所でも知られている。  雪蹊寺の縁起は三つ特色がある。  一つは四国八十八ヶ所霊場のうち、二ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院であること。  弘法大師によって弘仁六年に開創されたころは真言宗で「高福寺」と称した。その後寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主長宗我部元親で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職として招き中興の祖とした。  元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とした。元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め今日に至っている。  二つ目は鎌倉時代の高名な大仏師、運慶とその長男、湛慶がこの寺に滞在し、運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩を制作。また湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげる可愛い善膩(ぜんぶ)師童子像を彫像して安置したとされる。一時、運慶寺となのったのもこうした由縁で、これらは全て国の重要文化財に指定されている。  三つ目は「南学発祥の道場」といわれ、江戸初期の住職、天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍し、野中兼山などのすぐれた儒学者を数多く生み出している。
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