第1章

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 土佐沖で強烈な暴風雨に襲われた。種間寺が建つ元尾山にほど近い、秋山の港に難をのがれて寄港した。彼らは航海の安全を祈って約百四十五㎝の薬師如来像を彫像し、元尾山に祀った。これが寺の起源とされている。  本堂は「安産の薬師さん」で、また底の抜けた柄杓に人気があり、信者は多い。  種間寺の見どころは、妊婦が柄杓を持って詣ると、寺では底を抜いて三日三晩の安産祈祷をし、お礼を添えて返す。それを妊婦は床の間に飾り、無事に安産すれば柄杓を寺に納める。    そんなお詣りに人気があるようだ。  加奈子がじっと柄杓を見ていた。  第三十五番札所清瀧寺は土佐市の山間部にあった。種間寺に来た道を戻り、春野役場前からバスに乗った。  農協前から左に折れて、土佐市林口停留所で下りた。そこから二㎞余りの山道を歩いた。着いたときは納経所が閉まる寸前だった。納経所でいただく物はいただいてから参詣することにした。  土佐市の北部醫王山の中腹にあるが、ここは「土佐和紙」「手漉き障子紙」で知られる高知県の紙どころ。その源を辿ると弘法大師と因縁浅からぬ霊場であることがわかる。「みつまた」を晒し、和紙を漉く重要な源泉として信仰の篤い札所である。  縁起によると、養老七年に行基菩薩が行脚していたとき、この地で霊気を感得して薬師如来像を彫像した。これを本尊として堂舎を建て「影山密院・繹木寺」と名付けて開山したのが初めと伝えられている。  弘法大師が訪ねたのは弘仁年間のころ。本堂から三百㍍ほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して閼伽井(あかい)権現と龍王権現に十七日の修法をした。  満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡のような池になったという。そこで山号や院号、寺名を現在のように改め霊場とした。  この水は麓の田畑を潤すことはもとより「みつまた」を晒し、紙を漉くうえで重宝され、やがて土佐和紙産業を起こすことに貢献している。  寺伝では平城天皇の第三皇子が、弘法大師の夢のお告げで出家し真如と名乗った。真如はこの寺を訪ね、息災増益を祈願して逆修の五輪塔を建立、のちに入唐している。大師十大弟子の一人である。  厄除け祈願の名刹で、そのシンボルが本堂より高い大きな薬師如来像である。
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