何時も心配で悩んでいる事、我が一族には笑いが無いと言う事

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 然し如何に心優しい会話で楽しく雑談出来ても、所詮は他人様である。  彼が私の次女との「愛」が守られて居る間のみの「義理の親子関係」である。  「絶体的な血族の心」に達するには20数年ではまだまだである。  頼るは昔ながらの「子はかすがい」の諺である。  義理の息子に二人の孫息子、Hと丁kに対する「絶体失いたくない」と言う 「父性愛」の持続を私はひたすら期待するのである。  「血は水より濃い」と言う。  「切っても切れない中、云って見れば(腐れ縁)で繋がって居る仲間」である子や孫である人間の「大丈夫かぁ」はなるべく払拭したいものである。 性格も、生まれ・育ちもまるで異なる「あかの他人同志」が50有余年、それこそ夕飯で顔を合わせる毎に何かしら口喧嘩をしつつ未だに、起居を共にしていると言う事は、現代の思想から見ればまさに奇蹟と云ってもいいかも知れない。  それ程私達夫婦は気の合わない、殆ど「愛」と言う甘い字の浮かばない男女ではあったのだ。  私は自分達への言い訳に「夫婦は戦友」と言う造語を掲げた。  専もこれも夫に言わせれば「こんな怠け者の戦友」はお断わりと言うかも知れない。  第2次世界大戦の壊滅的終末を大陸で味わい、一族を率いてどん底の祖国 佐世保に引き上げて来て、生き抜いて来た夫は、私にはついていけない程の働き者であり、物を粗末にしないと言う人間だった。  要するに私は「楽に生きたい、苦しい事は避けたい」甘やかされ娘だった。  夫は「働くだけ」私は母親としての「自覚」もはっきりせぬ儘、闇雲に二人の娘を「流れる儘」に育てただけと言う「偉く無い」男女だったのだ。  いわば何も学ぼうとせぬ儘の成り行き任せの親であったのだ。  「大丈夫かぁ」と可愛い孫息子二人の「本音」が判らぬ儘、「嘘の無い人生」を蟻の如く働き、社会とリタイア後は、皆の幸せをと願って生きているのだから、子孫達も「悪い事をしない」「自分に高望みをかけない」善き人物ととして、「幸多き生き様」をやり遂げてくれるものと思いつつ、今日も生きている。  「私は良い人間なんだから願いは叶えられる」と言う傲慢を戒めつつ・・。         
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