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左衛門佐殿の「大事無いようで」という言葉にものかなしそうに笑った孫次郎様。それはきっと私の兄上を思い出してのことだったのだろう。顔を覚えてもいない兄とはいえ、兄上と親しかった人を悪者にはしたくない。それに私に名を問うて微笑まれた時は確かに悪い方のようには思えなかった。だから私は素直に答えた。なのに。どうしてだろう。左衛門佐殿が彼を見据えている時。彼の瞳は水の層を幾層も重ねた深い深い海の底のように光を受け入れず、濃い色に淀んだように見えたのだ。私の歳とあまり変らぬ歳月を遠い遠い海の向こうの戦地で過ごしたからというには、何か違うような気がしていた。そうだと言うのなら、途中から様子が変わるのはおかしな気がする。彼の従者の方も驚いた顔をしていたが、左衛門佐殿は私は悪くないという。ならば、私が彼らに失礼をしたわけでもないのだろう。一体、何が彼の瞳を深みへ沈めたというのだろう。左衛門佐殿は私が諱を口にした途端、私を彼の視線から遮った。もしかすると、私の名に何かあるというのだろうか。 「―左近様」 「は、はい!」 弥助に呼ばれ、慌てて私が声を上げると斜め前にいる船員が驚いて櫂をこぎ損ねた。弥助はすぐに船乗り達に櫂を上げるように指示を出す。波が上下して止まった船を揺らしている。弥助はひたと波を見据えて暫く様子見をし、やがて船の安全を見定めると櫂を上げたままにして船員達を休ませた。弥助が腰を下ろし、自身も少しの休息に入って私に話しかける。 「心此処にあらずでしたな。」 「すみませぬ、」 考え込むうちに、私の耳は弥助の声を通していなかったらしい。肩をちぢ込ませて謝ると、弥助は首を振る。 「いえ。私のほうこそ驚かせてしまったようで申し訳ありませぬ。」 頭を下げてきた弥助に向かってひらひらと手をあおぎ、顔をあげるように促す。顔をあげた弥助に私は聞き直した。 「それで、何の話でしたか。」 私は後ろめたさから落としがちになった視線をわずかほど弥助に向ける。 「左近様が須野様とお話をされているときに私共は向こうの船乗り達と話をしていたのですが、そのときの話を。」
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