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「名を伏せられていたのだ。」 「須野様に、に御座いますか。」 「ああ。」 「香椎様は十余年前の御方とはいえ、須野様は忘れられぬでしょうからな。」 一度そんな会話が耳に入って目を覚ましかけたが、起きてはならぬような気がして私は改めて眠りに身を預けた。 港へ着いて船が大きくゆれ、目を覚ます。それからは何事も無かったように振舞い、手を振る弥助たちと港で別れた後、馬へ乗って左衛門佐殿と共に居城へ帰った。階段で浜へ降りていたときのように馬へ乗っている間も左衛門佐殿は変らず無口で、私も口を開く事は無かった。城へ帰りついた後は左衛門佐殿と一時別れ母上の元へ挨拶に伺った。 無事に帰った事を報告した後、須野様に会った事をお話しすると母上は懐かしそうに頷かれる。そうですか。お元気でしたか。そう言って笑う母上の明るい顔色を見るうちに聞きたい事は聞けなくなって、彼の蒼白くなった顔や深い色に淀んだ瞳の事は言えなくなってしまった。 「はい。大事無いようにございました。」 母上にそう言ってからは左衛門佐殿に言われたとおり、浜での事は気にせぬように、名の事は考えぬようにと努めた。 本当のところ香椎様と聞こえた時に誰も何も教えてはくれないだろうと諦めはついていた。香椎様は私が生まれる前の人であるが、誰もすすんで話してはくれない。聞いてはならぬと遠まわしに教えられているように感じるほど皆口を開かないのである。 暫く母上とぽつりぽつりと話を続けて一段落ついたところで話を終え、母上がいらっしゃる部屋を出た。自室へ向かう途中で船から眺めようとしていた陸の先、石碑の方角を見つめながら足を止める。立ち止まり、風が柑子色の結い紐を二、三度揺らした頃。私は左衛門佐殿を待たせていた事を思い出して自室へと歩を進めた。
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