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「……殿、」
「あ。ああ。覚えておこう……。」
従者に後ろから小さく声をかけられ、孫次郎様は呼吸を取り戻したように二、三度瞬きをした後、零した声につられたようにそう言った。
「そうだ、急いでいたんだ、今日はこれで失礼させていただくよ。」
思い出したように不意に立ち上がり、孫次郎様は半ば独り言のように一息でそう言い終えた。笑みとはかけ離れた蒼白い顔に薄く貼り付けたように笑みを浮かべるその表情にも、不自然な速さで言葉を述べるその声にも、私は言い得ぬ不安を覚えた。
「はい。」
戸惑う口で私が答える。孫次郎様は私の返事を聞いていたのか聞いていなかったのか分からぬうちに「では、」と言って身を翻し、城を登ってゆかれた。暫くのときが流れ、孫次郎様の御姿が見えなくなったところで私が左衛門佐殿を見上げると、ようやく私の前に伸ばされていた腕が下ろされる。
「……左衛門佐どの。私が何かしたのでしょうか?」
左衛門佐殿が腕を下ろしてくれたのを受け、私は改めて問いかけた。
「いえ。殿は何も悪い事はされておりませぬ。」
今度は答えてはくれたが、それから先に左衛門佐殿の言葉が続く事は無かった。ずっと先を見据え続ける左衛門佐殿から目をそらし、ぼやけた視界で彼の足跡が残る砂浜をみつめる。腑に落ちぬまま私は呟いた。
「……さようにございますか。」
やがて左衛門佐殿が振り返り、船の方へ歩き始める。しかしそれに気付かずに考え続けていた私の方へ「左近様!」と船頭が声をかけてきた。私ははっとして背筋をぴんと伸ばす。慌てて振り向くと数歩先へ左衛門佐殿がいた。左衛門佐殿はそこで止まり、私が隣へ来るまで待ってくれる。私にとっては十数歩のその距離を駆け終え、左衛門佐殿の隣で一息ついた所へ「お気になされますな」と左衛門佐殿がいつもよりも柔らかい声で私に笑いかけた。左衛門佐殿の普段と異なる様子に、かけられた言葉とは反対に言い得ぬ不安が私の中で色味を増す。ぎこちなくなった足で歩を進めて船のそばまで着くと、左衛門佐殿が私を抱え上げて船に乗せる。左衛門佐殿も船に乗ったところで船頭が船員に合図をし、数人の船員達が一斉に櫂を波間へ差し入れ漕ぎ出すと船はゆっくりと動き始めた。
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