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「うっかり携帯電話を無くしたようで」
一言添えると、運転手は探る眼差しを穏やかにし、視線を前へ遣った。
「――それは、大変ですねえ」
「家族に頼んでロックは掛けてもらいましたが。届け出ても見つかるかな……」
困った顔をしてみせたわたしは、動き始めた車窓の外を眺めた。
あの子が沢山の幸せに溺れ、わたしのことなど早く忘れてくれるようにと願いながら。
低い階段を二段上がって建物に入る。
比較的殺風景ではなかったが、中は思ったより古く狭い。
わたしは待合の黒い長椅子を横目にカウンターの係に近寄り、声を抑え気味にして係員へ話し掛けた。
「すみません」
「はい、どうされましたか?」
「二十二年前に失踪した加納仁美さんの件で」
制服姿の係が唇を引き締めて軽く目を見張るのを見つめ、
「榎本と申します。――そのことで、お話が」
時々、あの光景を夢に見てうなされる。
交際を始めたばかりの頃、彼女には子供がいた。
仁美がシングルマザーでも、わたしは幸せだった。
しかし育児による神経症に心を蝕まれた彼女が赤子に手を掛けようとするのを無我夢中で止めた、あの悪夢のような出来事――
仁美。
個室に通されたわたしは、古びた椅子の上で目を閉じた。
君の娘は今日、幸せになるためにわたしのもとから巣立っていった。
これからようやく、君に余生を捧げることができる。
長い間……悪かったね。
了
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