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「話見えないんだけど、なんでそんなに怒ってるんだよ。やっぱ家来るの止めるか。」
少しだけ沈黙が続き、「行く。」と岸は小さく呟いた。
そして、俺が触った頬の跡を指でなぞるように触れていた岸の仕草を、俺は見て見ぬ振りをした。
「ただいま…っていなかたんだった、母さん。」
「パート?何処だっけ、お花屋さんだっけ?」
「そうそう。知り合いのお手伝い程度だろ。ちょっと華道やってたからな。」
玄関で二人並んで靴を脱ぐ。あれ、靴紐がうまくほどない。もしかして俺緊張してんのかな。
「澤ちゃんさ、たまに花の匂いするよね。」
「そう?ユリかな…母さん好きなんだよ。俺はあんまりなんだけど。」
「いい匂いだよね。なんか甘くてさ、好き。」
岸は不意に立ち上がり、玄関に飾ってある花瓶を見ながら言った。
「甘かったけ?最近鼻詰まっててわかないんだよな。」
「澤ちゃんって万年花粉症なの?」
「鼻炎なんだよ。これは断じて花粉症ではない。」
解けない靴紐を諦め、ゆっくり立ち上がり岸の傍に寄りそうように近づいた。
「花粉症じゃん。てか、絶対ユリにやられてるんじゃないの?」
花瓶に飾られたユリの花を指差しながら、岸は得意げな顔をして見せた。
「俺の鼻が近場の花粉にやられるわけねえだろ。鼻炎だ鼻炎。」
「わかったよ、鼻炎だね。ふふ。」
俺は岸の笑顔が見たかった。
隣で笑う相手は岸しか考えられなかった。
お前の笑顔を、俺のものにしたいと、きっとずっと、
自分が思うずっと昔前から思っていたんだ。
「岸…」
俺は差し込んだ夕焼けの光に照らされた岸の頬に再び手を伸ばした。
さっきは片手だったけど、何故だか今ならできると確信して、両方の手で岸の顔を包み込もうとした。
ここは玄関だが、俺の理性は場所を選びません。
「ちょっと、待って!」
岸の両手が俺の胸を押し返す。拒む気か、いいぜ。
でも、お前は覚えておいた方がいい。
抵抗というものは時に、人を狂わせるものなんだよ。
それは良い意味でも、悪い意味でもな。
少し体勢を変え、伸ばされた腕をやさしく解いて、腕いっぱいに俺の中に抱き寄せた。
「澤ちゃん…」
こんなに近くで岸の声を聴いたのは、きっと初めてかもしれない。
俺とお前の間に、まだ初めてのものがあるんだな。
お願いだ。もっと、俺の知らないお前を見せてくれ。
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