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「さっきスーパーでお買い物した時ね、明子おばちゃんに会ったの」
唐突に、隣から幼い声が飛ぶ。
「え?」
箸を止めて振り向いた父親を見上げ、娘はまるでその驚いた顔つきがおかしいかのようにぷっと吹き出した。
「おばちゃん、て声掛けたら、変な顔して走ってっちゃった」
――明子はおしゃれだから、私も変な格好は出来ないのよ。
新調したワインレッドのコートを着て出て行った妻の後ろ姿を彼は思い出した。
背中に垂れた髪の先が栗色にカールして跳ねていたところまで、今朝、実際に目にした時より奇妙に鮮やかに蘇る。
あいつの髪は真っ黒で真っ直ぐだったはずなのに。
「それは、人違いしたんだよ」
大体、あの明子さんは確かここから電車で一時間近く掛かる場所に住んでいるのだから、この付近のスーパーに来るはずはないのだ。
そう思い直して一瞬、安堵してから、いや、それは向こうがまだ結婚していた頃に夫婦で住んでいたマンションの話だったと思い当たる。
遥子の口から彼女が離婚したとは聞いたが、その後、どこに移り住んだかは聞いていないし、自分から尋ねたこともなかった。
いつの間にか、妻の話を右から左に流すだけで、確かめなくなっていたのだ。
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