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三
「青柳(あおやぎ)……ニコルくんですよね」
心臓が三秒くらい止まってたね。
なんとか間一髪で持ちこたえ、手の震えをなるべく気づかれないようにして、俺は床に落とした文庫本を拾い上げた。それから彼女にあくまで自然に笑いかけて返事をしたんだ。
「そ、そそそそそそうでございますが」
「マスターとさっき話してたんです。ここ三ヶ月くらいかな、よくお店に来ているなって」
もう死んでもいいやと思ったよ。小豆さんが俺の存在を気にかけてくれていたなんて。
――ただ同時に、俺の心には、いささか不安の津波が押し寄せていた。波乗りからすれば五年に一度のビッグウェーブだ。恋人に「俺、絶対帰ってくるから」と、別れの口づけをしたあとに生命をかけて挑むレベルです。
ふいに話の続きを聞くのが怖くなり逃げ出したくなった。俺にだって自覚はある。毎日毎日、高校生が理由もなくコーヒーを飲みに喫茶店に通いつめるわけがない。
きっと彼女のことを盗み見ていることなんてとうにバレているだろう。俺は『気持ち悪い』と思われていないかと、不安で不安で仕方なかったんだ。
彼女の『次の一手』で、俺は二度とここに来れなくなる――そう覚悟した。
しかし、小豆さんが口に出した言葉は意外なものだった。
「わたし、今日でこの店辞めるんです」
目の前が真っ白になった。テレビのチャンネルの「消音」を押したように、世界の音という音がピタッと聴こえなくなった。無音の世界の中で、動揺している小豆さんの姿がゆっくりとぼやけていく。
事態に気づいたマスターがやってきて、口をパクパクとさせながらなにか問いかけてくるんだけど、さっぱり聴こえない。
いてもたってもいられなくなった俺は、勘定をテーブルの上に置き、店から飛び出した。
どこをどう歩いたかは覚えていない。ただ頭の中は小豆さんのことでいっぱいだった。小豆さんが辞める。
小豆さんともう逢えなくなる。小豆さん……小豆さん……。
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