1970年・秋 2

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「父さんだって。学校は」  『家』に帰らないといけないじゃないか。  言いかけた言葉を飲み込み、慎一郎は黙る。 「私のことなら心配いらない」  眼鏡の奥から、目を細めて息子を見ながら父は言う。 「読みかけの本があるから、退屈はしないし、茉莉花が起きたら話もできる。それより、庭の花壇の水やりと手入れを怠らないでくれ。大層大切にしていたから、花が枯れると悲しがるだろう」  慎一郎はとうに母の先が長くないのは知っていて、諦めている。  父も同様だと思っていたが。まだ、どこかで治ると、自宅へ戻る日があると信じているのか、信じたいのか。 「わかった」  慎一郎は鞄と上着を手にして病室を後にする。去り際に、「学校から帰ったら、咲いたら花と、母さんが好きな菓子を作って持ってくるって伝えて」と言い置いて。  父は普段から母を、「母さん」と呼ぶより名前で呼ぶ方だったが、今はさらにその傾向が強いようだった。  愛しむように、子供の前でも愛する女の名を呼ぶのに何の迷いもない。  聞くこちらが照れてしまう。  母があと少しで死のうというのに。  些細なことが気になって仕方がない。  僕は変なのかな。  慎一郎は足音を忍ばせて病棟の階段を下りた。
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