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「そう。下宿先の。とても心配性な人だから、日が高い内に帰らないとおろおろするの。……泊まっていった日、帰ったら大泣きされたの。心配で心配で一睡もできなかったって」
「下宿って……」言いかけて思い立つ。
柊山と話した時のことだ。
小父は、彼女が下宿していると言ってなかったか?
結婚していて下宿?
困惑の色を込めて彼女の言葉を待った。
「今日はね」
「うん」
「柊山先生に、招かれたの」
「さっきも言っていたね」
「ええ。私もお願いしたいことがあったからお受けしたわ」
「何を頼んだの」
「推薦状」
「推薦状って……じゃ、君」
「ええ、いつまでも家で無聊を託っているわけにはいかないでしょう? 次を考えないと。私……勉強ばかりで他に取り柄がないから、できる仕事も限られて。女学校出たての頃みたいにすぐ働き口が見つかるかどうかもわからない。新しく仕事を見つけるにしても誰かの伝があるのとないのとでは桁違いだし、こちらに地縁がないし他に頼れる人もいない。だから、恥を忍んでお願いしたわ。私、もう一度、教職に戻る。はじまりに戻って小学校へ行くわ。子供たちを教えるの」
「高学年の男子にも体育で負けないだろうからね」
「え、それって?」
「さっちゃんはとっても足が早いから誰も敵わないってことさ」
「……もう」
ふたりはクスリと笑った。
「小父さんはいいって?」
「ええ。快諾して戴いた」
「なら、来年の春には現場に戻れそうだね」
「それはわからないけど……。でも、せっかくの推薦状が無駄にならないようにがんばるわ」
「君なら大丈夫。よかった。これからどうするのか、気になっていたんだ。本当は……学内でもっと君と研鑽したり、ケンカしたりしたかったんだけどな」
「私も……」
幸子は手に持った湯飲みを卓上に置いた。
「先生の研究室でね、尾上君と会って。ここまで連れてきてもらったの」
「うん」
「本当は……来る気はなかった。だって……」
「わかるよ」
「ええ。ごめんなさい。でもね、ほとんど引きずられるようにつれて来られて」
片頬に笑みを浮かべて幸宏は想像する。
大男の慎に付き添われて小さな幸子がしおしおと歩く様。さぞかし彼は苦労し、なだめすかしたことだろう。
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