第1章

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 第五十一番札所石手寺は歩いて四十分足らずのところにあった。日本最古といわれる道後温泉の近くだった。参道が回廊式になっていて、仲見世に土産店が並んでいた。境内は巡礼者よりも、地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場だった。  その一つの要因は境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館をそなえており、四国霊場では随一といえる文化財の寺院であった。  縁起によると、神亀五年に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野十二社を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇の勅願所となった。  翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫像し、本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。「石手寺」と改称したのは、寛平4年の右衛門三郎再来の説話によるとされる。  鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。境内から出土した瓦により、石手寺の前身は六百八十年ごろ奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として立てられた考証もある。  これまでの遍路旅のなかで、衛門三郎なる人物が第十二番札所焼山寺の道脇で、弘法大師に詫びている座像があった。このときはさほど気にならず通り過ぎたが、日を追うごとに「なぜ、衛門三郎は跪いて詫びたのか」と、気になり興味もわいていた。だがどんな人物なのかと想像しても、確かな像は見えてこなかった。それがこの石手寺に来てようやく分かった。  伝説上の人物らしいが、何となく気になる話だから書いておきたい。  話によると、衛門三郎は四国遍路を最初に回った人だそうです。むかし伊予国(愛媛)に衛門三郎という主がいる大きな庄屋があって、秋のある日、汚い僧が門前で鈴を鳴らし、「食べ物をください」と鉢を差し出した。ところが衛門三郎はけちな男だったらしく断った。それでもその僧は何回も来た。八回目に衛門三郎は怒って鉢を投げつけると、鉢は八つに割れたという。不思議なことにその翌年、衛門三郎の一番上の子が病気になって急死した。衛門三郎は泣き悲しんだといいます。そしてその次の日には二番目の子がおかしな病気になって死に、三日目には三番目の子も急死し、八人いた衛門三郎の子どもは全て死んでしまったそうです。
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