第1章

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 衛門三郎は嘆き悲しみ、ついに寝込んでしまったという。ある日、弘法大師が夢に現れ『お前がしてきたことを悔い改め、情け深い人になれ』といわれたそうです。衛門三郎は、乞食みたいな僧は弘法大師だったと気づき、大師に会うために四国巡礼の旅に出て、二十何回か廻ったのちに、阿波の焼山寺の前で力尽きて倒れてしまったのでした。そのとき、耳元で声が聞こえたといいます。 『衛門三郎よ、これでお前の罪は消えた。お前の命はこれまでだが、何か望みはあるか』という方を見ると、お大師さまが立っておられたのでした。 『ありがとうございます。子どもはみな死に、望みは何もありませんが、後生は大名に生まれ変わり、今度こそ人のために尽くします』と誓ったという。  お大師さまは望みを叶えてやろうと、小石に梵字を書き、衛門三郎の手に握らせたそうです。やがて衛門三郎は息を引き取り、その後、伊予の河野家に男の子が生まれ、右手に石を握っていたのです。この石を納めたお寺を石手寺(松山市)と呼ぶようになったそうです。出典=お遍路の歴史・右衛門三郎。  第五十二番札所太山寺は、石手寺から十二㎞ほど西に行った所にある。松山港が近く小さな端をまわると松山観光港も近い。九州行きの航路もあり、神戸・大阪方面行きの発着港でもあった。  開基とされる真野長者、その長者が一夜にして建てたという縁起は興味深い。長者は豊後(大分)で鞴(ふいご)の炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・玉津姫と結婚、以来、運が開けて大富豪になった。  用明二年商いのため船で大坂に向かうとき大暴風雨に遭い、観音様に無事を祈願したところ、高浜の岸を救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口六十六尺、奥行き八十一尺の本堂を建てる木組みを船積みした。  順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。以来、「一夜建立の御堂」と伝えられている。  その後、天平十一年に聖武天皇の勅願を受けて、行基菩薩が十一面観音像を彫像し、その胎内に真野長者が龍雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊としたという。
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