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「早いじゃないか、カゲナリ」
目の前にあるフェンスから遠くを眺めていた安田課長がゆっくりと振り返って、僕に微笑んでくれる。
ふわりと舞い上がる屋上の風が、少しだけ乱れた愛しい人の前髪をさらさらと揺らすお陰で、笑顔がいつもよりも柔らかく見えた。
職場では見られない貴重な笑顔に釘付けになっていると、上着を脱ぎ捨てばさりと足元に放り投げる。
「そんなに私との最後を楽しみにして、急いで来てくれたのか?」
「いえ……。あの、扉に張ってあった紙は?」
「ああ、あれな。私のパソコンで用意しようとしたんだが、出先で調子が悪くなってしまってな。無断借用で申し訳ないが、お前のを使わせてもらったよ。ああしておけば、誰も邪魔しに来ない」
ふと真顔になり、僕の左手を両手でぎゅっと掴んできた。掴まれた手が、とても熱くて。――その熱で、どうにかなってしまいそうだ。
「……安田課長」
「お前に教えてやるよ、私の愛し方を。こっちに――」
「こっち?」
「扉のまん前でするワケがないだろ。文字の読めないバカ社員が堂々と入ってきたら、どうなると思ってるんだ?」
おどおどしてる僕の手を引き、北側の方へ連れて行く。
(何だかエアコンの室外機の音が、やけに耳につくな――)
横を通り過ぎながらそんな関係ないことを考えていると、ここに立っていてくれと指示され、やんわりと手を離された。
「何か、意味でもあるんですか?」
僕から数歩離れた先で立ち止まり、切れ長の一重瞼を細めて、じっと見つめる。
「意味、か。そうだな、お前に対して抱いていた印象が、そんな感じだったものだから」
その言葉に、改めて自分の周りを見渡した。
雨風にさらされた寂れまくっている屋上の角。安田課長はこんな冷たい印象を受けていたのか。残念ながら僕の想いは、こんなものじゃないのにな。
すれ違っている気持ちを悔しく思い、目の前にいる愛しい人を見ると、太陽が放つあたたかい光に包まれていた。
僕が憧れ、恋焦がれた安田課長の姿そのものだ――
光に向かって手を伸ばしても、虚しく空を掴むだけ。何も手にしちゃいない。こんなに欲しているのに。
――欲しくてほしくて、堪らないというのに。
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