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エアコンの運転音だけが小さく聞こえる室内で、見つめ合ったまま動かない二人。
「関係のはじまりとなった、あの言葉?」
彼は私を見つめ返して眉根を寄せる。
「あの忘年会の夜。あなたは私に『何が一番欲しいのか?』と聞いた。だから私は答えた。一番欲しいのは『自由を手に入れるためのお金』だと…」
「ああ、あの夜か……そう言えば、そんな事もあったな」
淡々と言葉を並べる私を見て、彼は目尻を下げてフッと小さな笑みを浮かべる。
「あの夜、あなたは見合った対価だと言って、一晩100万で私を買ってくれた。そのお金を切っ掛けに、私は過去を清算することが出来た。だけど、本当にあなたが100万を払って買った物は、私の体じゃありません」
「……どう言う意味だ?」
「あなたが買ったモノは、長い間封印していた私の恋です。あの夜、私は自分の恋心に気づいてしまいました。相手は病院イチの高嶺の花。…あなたが、既婚者だとは知らずに」
「……」
「あの時点であなたに奥さんがいると知っていたら、喉から手が出る程のお金を見たとしても肉体関係にはならなかった。本気で好きになんてならなかった。絶対に」
彼をジッと見つめる目を細め、言葉を噛みしめるように唇をキュッと閉じる。
「……ああ、だろうな。だから俺も言えなかった。……違うな、わざと言わなかったんだ。おまえを手に入れるために。そして、その後も手放す気も無かった。…計画的犯行だ」
先生は自虐的な笑みを浮かべて、静かに視線を落とした。
バツが悪そうに目を伏せた彼を見ながら、私は深呼吸を一回。
「本当は私、『もう一度家政婦に戻して欲しい』。そうお願いしたくて、今夜ここに来ました。でも先生の我が儘を聞いて、やっぱり止めます。家政婦雇用をお願いするのは」
決断を突き付けるようにきっぱりと言い切って、彼を見据える。
それは彼の要望を突っ返す冷淡な声に聞こえたのであろう。
「……我が儘か。確かにな」
彼は力の無い声をこぼし頷いて、その口もとには自嘲的な笑みを纏う。
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