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「先生、香川さんに一言も言わなかったね……」
助手席に座る私は火をともす街並みに目を向けて、夜のしじまの中に声を落とした。
「ん?何を?」
「香川さんが雪菜さんにした事」
「……ああ、その事か。彼女も今まで十分に苦しんで来た筈だ。あの場で俺が言う必要も無いだろ」
「それはそうだけど……本当にそれで良いの?だって、香川さんのせいで雪菜さんは事故に……」
ハンドルを握る彼を見て遠慮がちに語尾を濁らせる。
「誰のせいなのか。…もう、今更そんな事を言っても雪菜は元の姿には戻らない。過去は変えられない。
彼女には守らなくてはならない大切なものがある。子供のためにも、過去の呪縛から解放されなきゃいけないんだ。麻弥だって、そう思うだろ?」
私にだけじゃない。先生はまるで自分にも諭す様な口振りで穏やかな視線を私に送る。
大切な者を守る未来に目を向けて……
「……うん、そうだね」
「彼女の罪を聞いた今でも、俺の中では制服を着て雪菜と並んでいた頃の、あの明るい笑顔の彼女が消えないでいる。内にどんな感情があろうと、長い間、雪菜を支えてくれていた事実に変わりは無い。『葵ちゃんには感謝をしている』あの言葉は、嘘じゃ無い」
先生は流れて行くネオンに目を置いたまま、口もとに柔らかな笑みを浮かべる。
崩れ落ちた体を小さく丸め、声を殺して泣く彼女の姿が瞼に焼き付いている。
もしかして、彼女は気づいていたのかも知れない。
先生が全てを知っていながらも、それをあえて口にしなかったその意味を――。
「香川さん、大丈夫だよね?」
「ああ、彼女なら大丈夫だ。彼女の精神は雑草の如く逞しい」
先生は冗談めかした口調で言って、目もとに穏やかな笑みを浮かべる。
「彼女よりも、深津さんの心配をした方が良いかもな」
思い立ったように声を続け眉根を寄せる彼。
「深津さんの心配?どうして?」
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