第一章 由佳

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 殺伐とした家の中で本を読んでいる間だけは、由佳は解放されたような気になった。J・R・R・トールキン、ミヒャエル・エンデ、上橋菜穂子、小野不由美、彼らが描く仮想の世界は由佳を夢中にさせた。  由佳は時々、そういった作品世界の中に自分が居る夢を見た。リアルな夢だった。風も匂いも感じることことができたし、何かに触れば手触りもあった。暑くもあれば寒くもあった。悲鳴や雄叫びを耳にすることもできた。  しかし、彼女はその世界の傍観者に過ぎなかった。目の前で起こる出来事をただ眺めているだけで、話しかけることも、誰かの注意をひくこともできなかった。まるで一切の干渉を拒絶されているかのようで、それはひどくもどかしい感覚だった。  中学生になると、読むだけでは飽きたらず、自分でも書き始めた。誰に習ったわけでもないが、小説を書くことは由佳にとってそれほど難しいことではなかった。「小説の書き方」というようなハウツー本を何冊か読むと、すぐにコツを掴んだ。  世界観を設定し、キャラクターを作り、プロットを練る。暇さえあれば、ノートに小説を書いた。書き溜めた作品がノート三冊分に達する頃には、誰かに読んで欲しいと切実に思うようになった。  誰かに作品を評価してほしい。それは創作する者にとって共通の心理だ。たいていの者は家族や友人といった身近な人間にその役割を期待する。  しかし母親にそんなことを頼めるはずもない。「そんなものを書いている暇があれば勉強しなさい」とヒステリックに喚かれるのは目に見えていた。かといって、由佳には親しい友人もいない。クラスメイトたちはいつでも机にかじりついて何やらノートに一心に書き込んでいる由佳を一種の変人と見なしていた。
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