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いけない。もう、帰らなくては。
「スミマセン俺もう帰ります。仕事が」
「あぁ、じゃ家のそばまで送ろう」
「いえ、駅で大丈夫ですからっ」
「じゃあ、これタクシー代。今日はありがとう」
「いえ見学に来ただけですから」
左手に一万円無理矢理握らされたまま、アキはタクシーの中で妙な違和感を感じていた。
家に帰ると珍しく正司がいなかった。もうすぐ出勤時間なのに。
がちゃ。
玄関の開く音がした。
「アキっ」
「しょうじさ」
「アキ、今日どこにいた? なにしてたんだい?」
「何って」
「レコード会社の男と一緒だったんだろう? 」
「もうっ ほっといてよ」
「放っておけないよ。君のことが大好きなんだから」
「・・・・・わかってるよ。でも、そっとしておいて。お願い」
「・・・嫌なことはされてないんだね? 」
こくん。とアキが頷く。
「・・・じゃあ。仕事にいこうか」
間違いなくアキは昼間、夕刻までどこかでピアノを弾いていた。今日は遅れて仕事前の指慣らしの時間もなく仕事に入ったのに、一曲目からこの滑らかなタッチ。優しくやわらかなメロディ。完璧な演奏。
「ねぇ、マスター。アキとなにかあった? 」
「え」
「俺じゃなくても気付くと思けど。バレバレじゃん? なに? ケンカ? 」
「あぁ。ちょっとね・・・。遠山君はアキから何も聞いてないの? 」
「俺から情報聞き出そうとしても無駄だよ。俺も最近会ってもらえてないし。今日もふたりして開店ギリギリに来るし」
「あぁ。それは僕のミス。すまなかったね」
「・・・大丈夫? マスター」
「ちょっとね。お手上げなんだ」
両手を組んだ甲に顎を乗せた頬杖でリオがマスターを見上げる。いつものカウンター席は今はリオだけで占領している。
「俺。なんか手伝う? 」
「あ・・・そうだ。遠山君。アキが髪を切った日。店にいたよね。カウンター席に痩せた170センチくらいの、スーツはノーブランドで左腕にオメガのコンビをしてる男はいなかった? 歳は40代前半」
「・・・いなかった。俺が見たのは50手前のガマガエルみたいなおっさんだけ」
「・・・そう」
「そのオメガのコンビが怪しいの? 」
「レコード会社のスカウトマンなんだ」
「ああ・・・そゆこと」
「それがアキはもう先方と接触してしまったらしくて」
「レコーディングしたの? 」
「わからないんだ。話してくれなくて」
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