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その帰りピアノを弾いてるアキを見ると、こちらに気付いて曲を盛り上げてくれた。おかげで数人の常連客に冷やかされる始末。やっとの思いでバーカウンターに帰ってきて一息つくと、一枚のポストカードが目に付いた。
ゴッホの、『夜のカフェテラス』。
昔。矢代忍と関係があった頃のアキは、とても控えめな子だった。物静かで。生き方に不器用で。
そんな彼に惚れたのだが、そんな彼を変えてあげたかったのも事実。
もっと自由に――
もっと伸びやかに――
入籍して数年。
アキは変わった。ひかえめな笑顔はまだそのままだが、いままでの彼ならピアスの穴を開けて欲しいなんてお願いはしてこなかったはずだ。
まずオシャレを楽しむなんて事も無縁だっただろう。
それは生活環境が変わったことが大きいだろうが。
確かに甘やかしてる自覚は十分にあった。甘やかしたくて、トロトロにとろけさせてしまいたくて堪らなかった。
可愛くて――
愛しくて――
家族になれたことに浮かれていたのかもしれない。と、正司自身思っていた。
(新婚さんだ。浮かれて何が悪い)
何年までを新婚と呼ぶのかは人それぞれだが。
確かにこのふたりには甘い新婚ムードが未だに滲み出ていた。
バーカウンターの席に一人の客が座る。さっきまでピアノが良く見えるテーブル席にいた客だ。胸ポケットからスッと名刺入れを出し一枚の名刺を出すとカウンターに置きマスターに向けてすーっと差し出した。
「スカウトしたいんだけど」
誰もが聞いたことのある、老舗のレコード会社だった。
「アキはウチの専属ですので」
「CD出せば客の入りも上がって、おたくの売り上げも上がるでしょう」
「今でもご覧の通りの盛況ぶりですから」
正司はどこまでも穏やかだ。
「またくるよ。マスター」
「ありがとうございました」
素早く勘定を計算し、白い小さな紙に書いて手元に差し出す。
その客を送り出し、塩を撒いてやりたい気持ちをぐっと抑えながらテーブルを片しに戻る。
閉店の頃合になったようでお勘定の客が増え正司が忙しくなってしまった。今日は偶然月払いの客が少ないのだ。
「正司さん。片付けは俺やるから」
「いいよ。アキは最後までピアノを。今日は二人で残業しよう」
「・・・わかった」
しばらくしてピアノの旋律が聴こえてきた。
「これは・・・」
「『また会う日まで』、や」
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