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アキはその客の好きな曲を弾き始めた。
ショパンの練習曲 『黒鍵』 。
右手が鍵盤の黒鍵だけを弾いていく一風変わった曲だ。だが曲だけ聴いているとそんなことは感じさせないキラキラとした可愛らしい音使いなのだ。
客人がニコリとしたのでアキはニコリとおじぎを返した。あの客人はショパンの練習曲がお好きなのだ。
ついでにショパンを数曲。リストも数曲馴染みのあるものを奏でた。さすがに、 『ラ・カンパネラ』 は練習やりこまないと無理だなと思った。
額に汗が滲んできた頃。正司が手首をぽんぽんと指で指す。休憩だよ。と言っているのだ。
いつものようにカウンターに立ちペリエを貰う。
飲んでいると、不意に知らない男性が隣に座った。スッと出された名刺にアキはハッとした。
是枝 篤――
正司が見ていない一瞬の隙だった。
「何処いってたんだいアキ」
「ちょっと外の開気吸いたくて、ゴメンね心配かけて。仕事戻るよ」
「そう」
ちょっといつもと雰囲気の違うアキに違和感を感じながらも、正司は仕事に戻った。
無事に今日の仕事を終え、帰り道。車の中。
「今日。何かあった? アキ」
「え? どうして? 」
「いつもと雰囲気が違うから」
「髪型のせいじゃないかな」
「そうかな? 」
「え? 」
「本当にそれだけかな? 」
「正司さん? 」
「隠し事するのはアキの自由だけど、君を守りきれない可能性も出てくるから、そこが怖いんだ」
「守るって。俺、子供じゃないよ」
「もちろん。恋人としてだよ」
「正司さんの束縛、嬉しいって言ったけど撤回。やっぱりちょっとウザイ」
「・・・そう。わかった」
正司の淋しそうな声が車内に溶けて消えた。
数日後の昼。夏の日差しの中アキは外出した。
ウザイと言われてからこっち、ろくに言葉も交わしていない。
触れるどころかキスも、目を合わせてもくれない。
もちろん何処へ行くかなんて聞けなかったし、言ってもくれなかった。
「アキ・・・」
高層階の窓から下の路地を眺め、正司は愛しい恋人を思う。
嫌われて、しまったのだろうか。
あまりにも束縛しすぎて。
好きという気持ちが強すぎて、相手が重荷に感じることはよくあることだ。
でも、それにしても突然すぎる。
きっとあの夜に何かがあったのだ。アキが髪型を変えたあの夜に。
(店で客の誰かに声をかけられたのか・・・?)
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