1970年・秋 5

3/3
前へ
/3ページ
次へ
「慎先生ならいないよ。今、海外」 「知ってます」  次の言葉を待つ。  言っていいものかどうか、迷っているのが手に取るようにわかる。  話のイニシアティブは、僕が執ろうか。  武はスパッと言った。 「僕は君の力になれると思う」  少年の唇が一度開いて噛みしめられた。 「大丈夫、知ってるよ。君のお父さんとは長い付き合いだから。だって、君の名前、間違えてないでしょ? 言ってごらん、何があったの」 「父……に連絡を取りたいんです」 「うん。行き先ならわかっているから。奴は旅程表とかホテルとか言っていかなかったの」 「母なら知っています。でも、聞けなくて……」  緊張する時、人の手は雄弁に物事を語る。  ぎゅっと握られた両手は白くなるくらい色が変わっている。 「隠さなくていい。急を要するんだね」 「はい」  一度、目を閉じ、視線を下げたまま、少年は言った。 「母が入院したんです」 「いつ」 「昨日の深夜です。今朝、主治医の先生から話を聞いて。末期癌で手の施しようがないって……」  内心で武は舌打ちをする。  まったく、大人というやつは。  平時ならともかく、危急の時に曖昧な関係のツケが出るのに見ないフリをしてしまう。  にっちもさっちもいかなくなった時、巻き込まれるのは、身近な者だ。  頼れる身内がないこの少年のことを、サポートする大人が何と少ないことか。  こんな少年に、病名を告げるんじゃないよ、医者! 「僕の方からも、大学からも、大至急連絡をするよう、電話と電報をさせよう。君の家には弁護士の先生はいなかった?」  あ、と言って少年は答えた。 「います」 「そう。じゃ、弁護士の先生には詳しく、学校の担任の先生には一言伝えた方がいいね。君のお父さんの方は僕に任せて。詳しい話を聞きたいから、僕の研究室でお茶でもどうだい? まず、先生たちに電話しておいで。小銭はもっているね? さあ、急いで」
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加