懊悩者

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状況が呑み込めない侭に、口腔内で激しく展開される蹂躙は、舌を絡め取られ、歯茎を撫でられて、細胞のひとつひとつにまで浸透してくるかのような淫靡な唾液の融合から、私の抵抗むなしく、混ざり合った唾液は嚥下された後、意識が静寂の底に沈んでいく。甘美な痺れが私の脳を麻痺させて、脊髄を快感のパルスが急加速で走り抜け、体中を悪寒が支配する。恐怖は薄れて比較的穏やかな波がきたかと思われれば、間髪入れずに重厚な背徳の臭味が、鼻腔の奥底から痛覚を伴って知覚された。 再度、遅れて川端の吐き出された言葉が、まるで呪詛のように痺れた脳内に共鳴する。 ――被疑者を知れば、物の見方が変わる恐れがありますよ。 駄目だ、川端から言質を取ってしまえば、私自身が頸木を生む素因を呼び込んでしまう。抵抗しなければ、底を目視できない深淵まで落ちていくことになる。 耳を塞げ、心を閉ざせ。なすがままに享受することは、絶望を意味するのだ。私は精一杯力を振り絞って、私との接吻にある種の恍惚な愉悦に堕ちている川端の両肩をつかんで引き離した。 物足りなさが、川端の両眼から窺い知れる。耽溺しきった表情は、だらしなく口端から涎を滴らせ、荒廃と堕落を一身に纏った痴女そのものだった。彼女の媚びを売る視線が堪らなく私の嫌悪を誘った。 時が大きく軌道をそれて、役割自体を放棄したかのように、静謐で暗澹たる覆いに包まれた。周囲の者は動きを止め、石像のように頑なであった。そこで私はこの瘴気こそが、眼前に展開する世界への確執であると理解した。私と川端真紀が織り成す獣然とした本能への忠実な思慕は、ひとつの化学反応に準じて、まったく別種の化学物質へと変容することを強いるものだった。 人間が人間として機能を果たさなくなると云うのは、人体機能の損傷によるものではない。精神が肉体から乖離して、意識としての存在に戻るからだ。分離そのものが人間としてのあるべき姿であり、そもそもが肉体を持ったからこそ不自由を行使できるのだ。創造のプロセスをこの世界線で体感するには、ある条件を満たす必要がある。 「ひっ…!」 私の為体は不様な 弱者の嘆きとなり、川端の被虐心を燻るだけである。同情の余地なしとばかり、私は伸し掛かられる形で窓際まで追い遣られ、降車ブザーに腕を伸ばしかけたところで、あの醜悪な触手が手首から執拗に拘束を極めた。 川端の舌が首筋を這い、これ以上の驚嘆を経験したことがない私にとって、鶏が絞められる時分に出す想像性を欠いた死と直結した悲鳴が、そう、微かに空気のように漏れ出しただけであった。 ぬめりと遅れてやってくる腐敗の臭気が、ただただおざなりな前戯であり、それすらも続くであろう性行までの蓋然性が担保されてはいない。非日常の空間にあって恐怖に支配された脳の活動など宛にはならず、この間々もし私が川端の異能でもって屠殺されうる身なら、それが衆目の中にあって公然と実行される証明が欲しかった。何故周囲の人々はこの不祥事にあって抗議せず、瘴気で覆われた車内で悠然としていられるのだろうか。 「お前にとって、世界は一顧だにしないほどに閉塞されている」 耳鳴りがするほど甲高い声だ。今まで聞いたどの声とも比較できない。声というには憚れる、いうなれば鉄筋の乾いた振動だけが抜き取られた代物だった。声だって音が空気を振動させてはいるが、川端のものは声帯から発せられたとは認められない。声帯を模した部位から無理やり覚えたての言語を捻り出したかのように、雑で歪な音のような何かだった。それであっても私は聞き逃さず、況してや言語理解すらできていた。 「あっ…ああ…! お前は誰なんだ…」 正直この問いかけにどれほどの意味があるのだろう。眼前には川端の容貌が確認できるものの、果たして悪魔ではないと確証できない以上、これでは心もとなかった。 「安心しろ!閉塞は瓦解して、今一度混沌が地上を巡る。約束の地はない!古き神々の御足が、無数の家々を踏み荒らし、大地を平坦ならしめて! 人の子らよ、使いに出よ。宇宙から地下から呼び覚ませ! 根源は決して暁とはならん! 」 鼓膜が弾け飛ぶのではないかと勘ぐりたくなる、人間が聴き取れる周波数の限界だった。気絶するのもやむなしか、私は拘束されている両腕の自由が叶ったならば、鼓膜を破り、一時の激痛が束の間の安息を与えてくれるのなら、以下に行使するのも吝かではないか立証できるはずである。恐怖が悪寒が音の遮断だけで立ち消えになるのなら、再生可能な部位など爪や髪と同様に然程重要視していない。問題は意思ではなく、実行出来るか否かの現実課題なのだ。 川端の指が私の頬を撫でている時も、総毛立つほどに亦肌が粟立つほどに精神汚濁が進行し、気が狂うほどに理性が失われていく。噛み締めていたはずの奥歯が打ち鳴らされ、背中から湿り気をおびてくるワイシャツの不快感が、乾燥した口中の補填にすらならない。融通の利かない身体構造に文句をつけていても始まらない。今は理性の維持と状況打破が全てであった。 「身の程を弁えろ、忌み子の鼠。見えている可視化の球体、不完全な怒号! 尽くし給うた先に悲嘆あれば、之即ち深淵からの理! 呼び覚ませ‐‐」 ここから先の言語が理解の範囲にない。音が拉げている。くの字にねじ曲がった音の正体は、見紛うほど精巧に作られた玉虫色した球体であった。脳が揺れる事を脳が自覚できるのか思案する間もなく、音のような何かが痛覚を伴わない寄生した虫のように侵入してくる感覚を覚えた。知覚できない筈が知覚できる様は、熟れた精鋭さながら確かな足取りであり、侵食してくる様は優れた戦略家を思わせる手際であった。
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