懊悩者

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1 娘を持つ身としては、生まれた条件が人生の全てだと、口が裂けても云えまい。岐路はそれぞれだが、選択は自身に委ねられる。希望は枯渇した心を潤わす清涼剤となるものの、自ら放棄して道を降りる者も少なからずいるものだ。私は他人の私事に口を剪むほど愚かではない。ただ、彼女の見切りを英断と割り切れるほどに成熟してもいなかった。他人の疝気を頭痛に病むとは徒爾であるが、度を越えた差し出口は性分である。なにしろ数十年前のことなので、記憶は曖昧模糊したものであり、斟酌なく彼女を想起できるか心もとない。 彼女の名前は倉越真理恵と云った。醜女とは結論が些か恣意的ではあるものの、数多の吹き出物と迫り出した頬骨は見るに忍びない。重ねて鶏肋の体躯と相俟って寸足らずの足は嘲笑の的である。そんな真理恵は恬淡な気質なのか、さほど拘泥した気勢もなく、悪罵は僥倖の兆しとばかり常に破顔していた。 私たちは同室で学んだ。三年間、教室を違えたことはない。双方とも、若盛りに摩耗を与える翳りが昂揚を搾取することから、必然的に単独行動が多くなった。無論、周囲の者とは疎遠となり、孤独が絶対的価値を生んだ。教室を移動する際、生徒たちが談笑に花を咲かせているのとは対照的に、私は日々貝となって刻々と影を差した。隣接する机の距離が開くたび、乾いた空気が執拗に張り詰めるのだった。 そうして入学から数日を過ごすうち、酷似した境遇の真理恵の存在に気が付いたのだが、彼女のいかにも粗悪な容貌に声をかけるのを躊躇われた。友と云う曙を凌駕する輝きに啓蒙しながらも、真理恵のような女に声を掛ければ私と云う人間が貶められ、これ以上ないと云った粗暴な扱いを受けないとも限らない。校内の噂にでもなれば、肩身の狭い私の居場所など、熱した鉄板の上の水同様に雲散霧消してしまうだろう。 昼時の時間潰しは専ら図書室の本棚の隅に凭れ掛かり、読了できない哲学書やら専門書やらの頁を繰って済ませた。棚の本は端から五十音順に整列しており、一糸の乱れもなく屹立している。受付脇にあるシェフレラが観葉植物にしては儼乎に映ったため、私は窓から差し込む光が反映して、幾ばくか心穏やかにしてくれることを願った。係りの者であろう色白の女子生徒が、頬杖をついて不逞も露に嘆息している。云い換えればそれは、稀薄な生の代替行状だ。室内は閑散としており、私一人があの女子生徒のように嘆息したところで、なんら疚しいことはない。校庭を疾駆する快活な絶笑が此処まで届き、折々想起されるところでは、そう云った快活さが内奥にある相反した慷慨と結合した時分、私の盛時を煽った。面映ゆいが、私は癇癪持ちなのだ。 一度だけ、此処で真理恵を見たことがある。書物と彼女の関係を云々しようとは思わないが、どこか異質な感慨を禁じ得なかった。と云うのも、あのような集団生活に不適格な者が決まって陥る空想癖は、此れが全てだと云わないまでも、雑多な書物を通読することから起因し、真理恵に限っては妄想の類を拠り所にするより現実を斜めから構えることで、シニックな結論に到達するのを好むように推測されたからだ。 私は真理恵を注意深く観察した。彼女の陰湿な所作、指の一つ一つの軌跡、首に傾げ方、微笑の企みが、甚く私の嫌悪を誘った。そのわざとらしい喜劇は、贈呈品の包装紙のように無意味だった。 県立朱鷺高等学校は、深閑とした山を背にして建てられている。粗末な間道を行き、校門までの短い急勾配の坂を上りきることが日課だった。毎日が簡素で瞠目とは無縁の暮らしであり、煤嶽村がいかにして都会との誤謬を孕む素因となっているか了得できる。規律は寛容に、競争は相互愛に、資本主義は共生に取って代わった。 瀟洒と利便性に目を瞑れば、普段の生活は安いものだ。流行に頓着しない様は、暗に時間の経過を鈍重にしていた。日が昇れば目を覚まし、日が沈めば床につく。規則正しく波止場に船の碇が下ろされて、子供たちは衆人環視の掣肘を享受しながら、難路な人間関係に薄明を見出していった。 私は子供と大人の境目にあって、未だ黎明の兆しすら適わなかった。迎合できない仔細を詮索しては癇癪を起し、令名は頑健な鎖で括り付けられた木箱にしまわれた。素行は崩さず礼儀は行き届いていたものの、内にある形容し難い感情のしこりが、私の気紛れに拍車を掛けた。例えば託けの類を耳にすると感情の行き場を無くしてしまい、新たな空語を拵えるよりは距離を縮めたくなり、苛立ち紛れから過言してしまうのだ。情操に落ち度があるのかもしれない。祖母に相談を持ち掛けたことがあるのだが、大なり小なり性格の歪みは個性の範疇と、一笑に付された経緯がある。そんな私のことを、真理恵は癇癪玉と呼称した。 校風は往々にして寛大である。生徒の自立を促す意味で個性を尊重し、慧となるを主眼として尽瘁も厭わない心胆を育むとあった。健全な人格を構築するにあたって智は懸隔ではなく、寧ろ尺度として用いるに足る干戈となる。教師たちの口癖は決まって此の言葉に集約された。進学校ではない、地方の県立高校にしては稀有なことだが、文教に注力しており、意識の高い数十名に及ぶ秀抜な者が著しい成果を上げた。東京大学、京都大学、国際基督教大学、一橋大学、大阪大学など、各大学に卒業生を送り出した田丸博学校長は、他校から羨望の的だった。異例の事態に都の教職員が足を運ぶほどに――。 入学から二ヶ月後に行われる中間試験は、そう云った意味でも試金石だった。私は学問を習熟する勢いで、一日の大半を自己研鑽に費やした。喫緊の問題はなく、科目挙げて平均点を凌駕することは自明の理だ。後はなにほど、評点を伸ばせるかに懸かっていた。 「笹川」 私は呼ばれて顔を上げた。伽藍の教室は夕映えが射し入り、落日は目下、東雲の前座に足らんとしていた。いい加減に並べられた机は極右の行進であり、掛け時計の秒針は喧しい極左の糾合だ。下校時刻を告げる放送が校内に響いたので、私は此れを契機に帰宅するつもりだった。学生鞄に教科書を詰め込み席を立った刹那、入室してきた坂本正一に呼び止められたのである。 坂本とは同じ中学校で学んだ。外語学に通暁しており、中学校時代の成績は彼と主席次席を分けることが間々あった。闊達な性格に裏打ちされた不壊で根太い精神は、他者の信頼を勝ち得るには充分過ぎるほどだ。仄聞したところでは、空気の綺麗な此処煤嶽村に引っ越してから後、才知をいかんなく発揮して、同期の者を悉く退けていった。水際立った東京弁を話、些少の方言も解さない達者な言詞は、時代の先端に達しているかのような心証を与えた。私のような神経過敏な者と話ができたのも、こうした純朴な安閑さからきたものなのかもしれない。
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