第1章

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 ふと、足に鋭い痛みを感じたと思った途端、視線が傾く。転んだ。身体を急いで起こそうとすると激痛が走った。走っているうちに鋭い石を踏んでしまったようだ。自身の血が地面を赤黒く染める。転んだ拍子に握っていた簪が手から離れた。  「もう逃がさねえぞ、おんなぁ」  狂気を目に浮かべた男が一歩、また一歩と近づく。がくがくと身体がふるえ、いっこうに逃げろという脳の指令が届かない。夢の住人たちは華を助けるどころか、なにかおもしろいものでも見ているように二人を囲んでいた。  「武士に傷をつけたんだ。わかってるよな」  すらり、と彼が腰の物を抜く。白銀の刃はそこかしこに灯された光を受けて妖しく光る。それは血を求める獰猛な獣のようだった。  「安心しろ。腕には自信がある。顔は傷つけず、きれいに首だけ落としてやるよ」  にやりと笑って刀を振りかぶった姿を目に移し、華は息をのんだ。  「東雲花魁、おなーりー」  よく通る声が張りつめた空気を打ち破る。華と男を囲んでいた人垣が自然に割れ、道が開けた。提灯を掲げた男を先頭に、長い行列がそこにあった。そのなかの一人の女性に、華の目は釘付けになる。  太陽の光のように何本もの簪を髪に挿した女性。金や銀の糸で細かく刺繍を施した帯を前で結び、深い紫地の着物には真紅の牡丹が華やかに咲き誇る。二〇センチはあろうかという高さの下駄を履き、優雅に足を大きく回しながら歩く。身を揺らしながら足を進めるその姿は、気ままに空を舞う大きな蝶のようだった。男に番傘をさしかけられ、後ろに続く大勢の人間をものともせず、むしろそれが当たり前であるかのように堂々と歩く。  その足がぴたりと止まった。当然だろう。彼女の前を歩く提灯を持った男の進行方向に、華と刀を抜いた男がいるのだから。提灯を掲げた男はぎょっとしたように目を見開き、あわてて首を後ろへ回す。だがその時、振り返った彼の横をすっと蝶のような女が通り過ぎた。  「し、ののめ……」  自分が刀を構えていることも忘れ、まるで美しい幻でも見ているように男がかすれた声でつぶやく。ふわりと優しく吹いた風が満開の花びらを散らし、華の目にも彼女の姿がさながら天女のように見えた。  「美しく桜が咲き誇るこの吉原で、なにやら物騒なものをお持ちでござんすなあ」
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