1970年・秋 7

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 持ち込んだ読書灯を布で覆って、灯りがもれないように位置を変える。  点滴の滴りは遅く、朝になるまで瓶を替えなくてもよいように調整していると看護婦は言った。けれど、夜中には彼らは様子を見にやってくる。  乾いてぱりぱりになった唇が痛そうで、何度もワセリンで潤し、ひび割れないようにしてやった。  漏れる吐息は病人のものだ。  普段の彼女なら、決して怠らない手入れを充分にしてやれない。  でも、慎の目には全てが愛おしかった。においも、手触りも、彼女のもの。  ワセリンを指につけて唇に塗る手を止めて、自らの唇を重ねる。  病を、口から吸い取れるものなら、いくらでも引き受けてやりたい。  癌の患者は痛みと闘う。彼女は特に痛さが際立っていたようだった。痛みで消耗して弱り、少しでも和らげてやりたくて薬での昏睡を選ばざるを得なかった。  それでも死に向かっているのだ。着々と。  本当に――打つ手はないのか。  最近は、彼女との思い出ばかりが頭をよぎる。  やっと彼女と再会できた時は幸運を喜び、妻子ある自分の立場を呪った。  次には暗い復讐心が頭をもたげた。穢してやろうと思った。しかし、できなかった。この手に再び抱けた時、何があっても、全てを引き替えにしても失いたくないと思った。  絶対に離さない、とそれだけを願った、若い日。  慎は病床に横たわる茉莉花の髪を撫でてやりながら思う。  私は彼女を幸せにしてやれたのだろうか、自分のエゴに付き合わせて、縛っただけなのでは、と。 「答えてくれ」  慎は呟く。  お前の声が聞きたい、と。
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