本文

10/34
前へ
/34ページ
次へ
「貝なら簡単だな」  私の一言を聞いた高杉からも「食べられる貝ならいいけど」と余裕がみてとれる。しかし、私のこの一言が余計だった。失念していたのだ。ここは非常識の中だと。 「舐めんな!」  突然聞こえた甲高い声。高杉の声でもなければ私の声でもない。誰の声かとあたりを見回していると、海の中から弾丸のようなものが私の腹部に飛んできた。小さい個体なだけにその威力は一点に集中し、経験したことのない痛みが内臓まで針のように響く。言葉にならない声を発しながら溺れないよう必死に悶える。驚いた高杉が海からあがるとまた声が響く。 「こっちにこい卑怯者!」  その声の主を私は見た。少し小粒な蛤(はまぐり)だ。声をはっするたびに殻をぱくぱくと動かし、跳ね回っている。蛤が話して動いているのだ。非常識、非現実、忘れてはならなかった。そんな簡単なはずもなかった。  歯を食いしばり、蛤に手を伸ばすが外見とは裏腹にすばしっこく、逃げ回って捕まえられない。それどころか弾丸のように私にぶつかってきて、たまったものではない。耐えきれなくなった私は、息を切らしながら砂浜へとあがった。 「大丈夫か!」  心配したように高杉が駆け寄ってくる。自分の体を見ると、あちらこちらに青痣が出来ていた。生身では無理のようだ。 「高杉、網をもてい!」  小屋から持ち出した網を二人で広げ海と砂浜の境界線まで走る。 「せーっの!」  掛け声に合わせ投網。網は綺麗に広がったまま飛沫を上げ海へ。その下には弾丸蛤が。しかし網目を押し広げ蛤はいともたやすく抜け出す。  スコップは約に立たない、鎌や鍬も使えない。早速つまづいてしまった。これを十匹と考えるだけで背筋が冷たくなる。何かないものかと砂浜を見渡すと、またどこからともなくキッチンが出てきていた。  砂浜の上に洋風のダイニングキッチンとはなんとカオスな光景か。その横には炭と網も常備。お好きに調理してくださいといわんばかりだ。キッチンの棚を開けると包丁やフライパン、鍋など色々な調理器具、そして塩や醤油などの調味料も完備されていた。しかし蛤を捕まえないことには使う事もあるまい。悩む私の後ろで高杉がプラスチック製のボウルを二つ取り出し、指ではじいていた。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!

45人が本棚に入れています
本棚に追加