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「茉莉花」
「はい?」
「ふたりだけになったら、私が退官したら、九州へ行かないか」
「九州」
ふたりが幼い慎一郎と共に新生活をすごした土地だ。
「便利すぎる東京のめまぐるしさが、時々妙に疲れる。引退したら、静かなところで生活したい。もちろん、君が良ければの話だが」
「そうね、またふたりで夜に散歩しましょう。慎一郎や、……政君が来るのを待ちながら。その頃には、孫がいるかもね」
「孫、ね……」
もう、そんな歳になってしまうのか、と慎はベッドの上に大の字に寝転がって伸びた。彼の肩に布団を掛ける彼女に言った。
「私は、もうひとりぐらい子供がいてもいいと思っているんだがね」
「誰の?」
「もちろん、君と私の」
「ま」
言って吹き出しそうになった茉莉花の目には、真剣にこちらを見る彼が映る。
「私の歳では、もうムリムリ」
「そんなことはないだろう、私の母は私を三十をとうにすぎてから産んでいる」
「あのね、私の年では、恥かきっ子、って言われるのよ、それに、もし産まれたとしても成人する頃には私は六十近くになってるわ。おばあちゃんよ。あなただっておじいちゃんだわ」
「君なら、きっとまだ若々しいさ」
『結婚』の一言を口にしてからの慎は随分と積極的だ。これでは退院後が思いやられる。
「考えておきます」
さあ、今はやすんで。病気を治すことを第一にして、と言って。
彼女は夫に口づけをした。
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