【8】求婚

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 あり合わせの着替えを用意してバッグに詰めて、慎一郎には置き手紙を残して病院へ急いだ。  出掛けに縁側で寝ている猫の都に声をかけた。ひなたぼっこ中だった彼女は大あくびをひとつして再び丸くなった。  火急の時に新しく用意しなくても手元にある、増える一方で減らない彼の衣服や下着類が、もう、お互いの関係に結論は出ているのだ、と伝えているようだ。  慎一郎の年齢が、そのまま慎と過ごしてきた日々の歴史、不実の証だ。  息子は今年で中学三年生。あと少しで高校生だ。もう少年という歳ではないし、自分たちの関係も、家庭のあり方も知っている。理解を求めるのは酷なことを受け入れさせている。  近頃では、彼女もあらゆることに筋を通すのは止めにしてもいいのではないかと思うようになった。自分も不惑の年に入る。正妻・愛人という位置づけに疲れたというのもあるし、慎とふたりで過ごす余生を望む気持ちが日増しに強くなっているからだ。  人の気持ちは変わるもの。  今回のように、彼に何か起きた時、何の迷いもなく駆けつけられるようになりたい。慎は近頃、身体がだるい、と何度も口にしていた、昔患った大病も気になる。再発の可能性もある。今日だってそう。何事もなければ良いのだけれど。  指定された病院は彼の勤務先である大学の付属だった。  約束通り、入り口で「やあ」と武が手を上げる。 「この度はお世話かけまして……」  茉莉花は武と、隣にいる慎の助手に礼をした。
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