【8】求婚

4/9

5人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
 主人は、と言いかけて、「彼は、今は?」と言い直した。 「うん、疲れが溜まっていたのと、インフルエンザで。熱が高くて卒倒しちゃったの」  慎は今朝は青山の自宅から出勤している。熱があったなんて。私なら布団に縛り付けて、絶対に外に出さないのに。知らず眉をひそめた彼女に、助手は言った。 「朝は普通に元気だったんです、けど、お昼を回った頃から急に顔が赤くなって、吐いてしまわれて」 「今ね、校内で流行っていてね、ワクチン打たないとね、って言ってたところだったんだよね。彼以外にも何人もここにお世話になっているから、あなたも移らないように気をつけて」  もういいよ、と助手に声をかける武は、一礼する学生を送り出した。 「ウィルスが収まるまでここに缶詰だから、奴がうるさいだろうけど、宜しく頼むね」  言いながら会釈する武の視線の先を追って、茉莉花は一瞬固まり、彼に倣った。  すれ違う相手は慎の妻だ。顔を見合わせた相手の口元が、声には出さずこう言っていた、「雌豚」と。  慎より年上だという彼女は、地味ではあるが決して見栄えは悪くない。貞淑な印象の女性だ。  暗い目をした、頑なそうな人。何度会ってもそう思う。けれど、人の顔や雰囲気は歳を取ると本人の責任でいくらでも変わる。  彼女をそうさせてしまうのは、そうさせたのは慎と私だ。  茉莉花は小さくため息をついた。  そんな女たちを横目で見て、「あのさあ」と武は言った。  武は、長年の気安さで茉莉花にも慎に語るような口調で言う。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加