【8】求婚

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長男の結婚  慎の容態はあっという間に好転した。しかしこの病人は大変我がままで、付添はとうに不要になっているのに、何かと理由をつけて茉莉花を側に置きたがった。はいはい、と応じながら侍る彼女も満更ではなかった。  病院という特殊な空間は人の口をなめらかにするのか、普段は聞けない話もするすると出る。もうじき退院というある日のこと、慎は茉莉花に、彼の政結婚の顛末を話した。  長男である政は、慎が勤める大学の学生だ。  父親が真円を書けると手放しでほめていた少年は、その後も研鑽を重ね、今では書道の世界で一目を置かれる存在になっていた。歳に似合わない深い字を書くと評判で、彼の師である書の大家が後ろ盾になっていた。  もちろん、書道家業だけではまだ食べていくには足りない上に、政の同級生でもある婚約者ももちろん大学生、ふたりそろって生活力などありはしない。  当代流行の学生結婚とはこのことか、と、慎と妻は、恋人を連れて来て結婚すると宣言した若いふたりを前に、顔を見合わせて絶句したという。  聞けば、ふたりの馴れ初めは中学の頃にさかのぼる。同級生だったふたりは、学年を重ねるごとにほのかな恋を育んでいたという。大学に入ってからは、何が何でも君と結婚すると恋人に猛アプローチをかけ、あまりの押しの強さに彼女の方が根負けをした、と政は説明した。恋人は、一歩下がったところで静かに目を伏せていた。  もう少し先ではダメなのか、せめて仕事を持ってから、生活できる目処が立つまで待てないのか、と慎が問うと、政はきっぱりと言った。  早く、彼女と所帯を持って自立したい、落ち着きたい、その上で書に専念したい、と。つまり、今のままでは字を書くどころではない、と暗にほのめかした、両親に対して。
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