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「別に謝らなくてもいいよ」
その人はゆっくりと立ち上がって、山吹色の髪を一房手繰り寄せた。
「だって、僕が無理矢理理性のタガを緩めちゃったんだから」
それに、とその人は手繰り寄せた髪に口をつける。
「僕は嘘が見えちゃうから意味ないんだ、伊東喜左衛門の娘のお毬さん」
本名を、
「マリア・カルタス……発音あってる?」
髪を口の端に付けたまま、その人は意味深な笑みを浮かべた。
「な、んで?」
誰も知らないはずのその名は、ずいぶん前に捨てたものだ。
「……どうしてだろうね」
真っ白な中に赤い瞳が、ほの暗く灯る。思わず怖くなって髪を掴んでいる手を払い除けた。その時、五色の紐が指先に引っ掛かって簪がゆるりと滑り落ちる。
「……あ」
「あーあ、せっかく抑えていたのに」
どうしてくれるの?
白髪に赤い瞳。その額からは左側に一本の角。
「……白鬼?」
「あれ?気づいてなかったの?」
出会ったときと同じように首をかしげているだけなのに、何かが違う。
「普通こんなところに、白髪の人間はいないよ?」
この国の人は皆皆同じの黒髪黒い瞳。……どうして気がつかなかったんだろう。
「さぁ、君は僕の正体に気がついた訳だ」
どうして、気がつかなかった。
「まりあ、君はどうするんだい?」
その白鬼は一歩詰め寄る。人間にはない畏怖の気配を纏って、それでいて仄かな色気を纏って。
「早く逃げないと、」
……逃げないと?
「捕まえちゃうよ」
鬼に捕まったらどうなるのか。子供の遊びにも歌にもよくある話。
誰でも知っている。
人は逃げなくてはいけない。でないと……。
「……食われてしまうのかしら」
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