第1章

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『課長、ご馳走様でした!』 『週末はリフレッシュして、月曜日からしっかりやっててくれ』  大江が、品のいいブライドルレザーのエッティンガーを主任の渡辺隼人(わたなべ はやと)に渡して、スーツの上着に腕を通しながら解散の合図をした。  その仕草に艶があったのが、いけない。清々しい大江の体臭が酒の甘い香りと合い混じって漂ってきそうで、香城の理性を簡単に取っ払ってしまったのだ。それで、あっけなく心中を露呈する結果となった。  あの時は、したたかに酔っていた。足元が覚束なくて同僚に支えられていたくせに、糸で引き寄せられるように、大江の前に歩み出ていたのだ。 『好きです! 真剣にお付き合いしてください』  渡辺から財布を受け取ろうろとしていた大江はもちろん、居合わせた社員達は一瞬、何が起こったのかわからないという顔をした。  だが、大江の即答に殺気を感じない者はいなかった。 『断る!!』  桜散しの小雨混じりの夜風が氷のつららに変化して鋭利な先端を突き付けられていようだ。ゾクゾクと背筋を寒くした社員の中で、香城だけがぼんやりしていた。 『あらぁ、黒漆拵えの獅子王光臨かしらぁ?』  不穏な空気を和らげようと口を挟んだのは、大江と同期の陽子だった。当然、逆効果。獅子王が何だか解ったのは大江くらいだろうし、ぎろっと陽子を睨んだ大江の目は正に刃物だ。その視線に撫で斬りされて、社員たちの酔いが一気に醒めた。
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