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あれ? と思った瞬間、先刻まで薄明るかった足元に暗闇が差した。
え、と戸惑う間に、背後から音もなく現れた誰かの影が見えた。
「え……え?」
誰かが急に瀞の背中に、ごつい指圧をぐいっと押してきた。痛みは感じず、それどころか究極の快感を押し込まれた気がして、へたりと瀞は石臭い廊下に崩れ落ちた。
何だこれ、すっごく気持ちいい……夢現で眠る時のような全身の弛緩。押された二ヵ所から優しい温かさが広がる。体中を回っていたアルコールまで、一瞬で浄化される爽快感がある。
俯せに倒れ、ほわほわとする体にコンクリートが心地良かった。
あれ、ひょっとしておれ、死んだわけかな。死神ちゃんと虹の橋を渡って月に逝くのだろうか。体も何故か動く気がしない。動かす必要性も感じられない。生きていくだけでしんどい、その感覚から解放されたのは初めてだった。
しかしそんな瀞の安らぎを余所に、ずっといた誰かが静かに声をかけてきた。
「どう? 紫音」
そう言えば誰だろう、と今更思った。そして紫音というのも誰なのだろう。
そこで厳然と、思わぬ事態が瀞を襲うことになる。
瀞の喉が突然、瀞でない者の声を紡いだ。
「うん、適合できた。やっぱりこいつ、オレと同じ月モノで間違いないよ」
それは紛れもなく、自称死神の声色。喋るだけでなく、せっかく至福だった体が勝手に、後ろの誰かに向かって起き上がった。
「珍しい月属性を持つ人間、か。これでやっと、紫音にも体ができたな」
自分の意志と無関係に動く体を、誰かがそこで、抱えるように優しく立ち上がらせた。瀞はやっと、え! と事態の一端を察した。
体はやはり勝手に、ぎゅうっと誰かを抱きしめてしがみついた。
「わーい、烙鍍―! これでやっと、生身で一緒にいられるね!」
これまた季節外れの黒いコートを着込む、銀髪でロック歌手のような青年。それに抱き着く瀞の背から、にょきっと二つ、黒い羽が確かに生えた。
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